レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年04月07日
- 登録日時
- 2015/05/02 18:41
- 更新日時
- 2015/05/02 18:41
- 管理番号
- いわき総合-地域312
- 質問
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解決
磐城平藩の内藤家のだれかの菩提寺から、船で運ぶ際に、難破して、位牌か墓石かなんかが無くなったらしい。そのような記載がある本はあるか?
- 回答
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『みちのくいわき ふるさと発見』に次のような記載があった。
89頁「六代の政樹のとき、(中略)延岡に移封となった。(中略)このとき、善昌寺に眠る遺体を発掘し、墓石まで運んでいる。」
『磐城平藩政史』に次のような記載があった。
190頁~191頁「延享四年(一七四七)磐城平藩主内藤氏六代政樹は、(中略)九州日向延岡七万石に転封された。…(中略)…この年の三月、平城下長橋を発して陸路により四月末大阪着、それより海路、瀬戸内海を経て、六月三日、延岡湾五箇瀬川河口に着船、実に七○日余日を要した。家臣の一部は、調度品、墓石などを積んで、薄磯の浜より、船出したが、難破して到着しなかったと伝えられている。」
- 回答プロセス
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1.検索サイトgoogleにて、『良善寺』を検索。レファレンス協同データベースに、当館の記事を発見。
2.「いわき市内にある磐城平藩主の墓所が知りたい。」とあった。参考資料とした次の本を閲覧。
『藩史大事典 第1巻』[K/210.5-0/ハ・1110009063]
『平の殿さま』[K/210.1-1/イ・1113868168]
『三百藩藩主人名事典 第一巻』[R/281.0/サ-1・1110020615]
『舊平藩戊辰殉難者追憶』[K/210.6-1/ヘ・1110047535]
『いわき市の文化財』[K/709/イ・1111362206]
『武者たちの舞台 下巻』[K/521/ム-2・1112166804]
結果、『平の殿さま』の9頁に、「初代政長は、死去に際しての遺言により、平菅の沢・善昌寺(ぜんしょうじ)に埋葬されていましたが、延岡へ移封の時発掘して運ばれ、善昌寺は廃寺となりました。」とあった。
『平の殿さま』の奥付に「資料提供 蛭田耕一「みちのくいわき ふるさと発見」・いわき地域学會「新しいいわきの歴史」」とあったので、閲覧。
『みちのくいわき ふるさと発見』89頁に次の記載があった。
「六代の政樹のとき、(中略)延岡に移封となった。(中略)このとき、善昌寺に眠る初代藩主政長の遺体を発掘し、墓石まで運んでいる。善昌寺はこのときから廃寺となって、今は数本の老松が名刹(めいさつ)だった名残りをとどめている。」
また、88頁には次の記載があった。
「二代忠興、三代義概、四代義孝、五代義稠は鎌倉光明寺に葬られている。」
同じく90頁には次の記載があった。
「安藤家は古鍛冶町の良善寺を菩提寺とした。良善寺は、内藤家が日向国転封のとき廃寺となった善昌寺を移転したもので、松ヶ丘公園の北部の丘の上にある。」
3.郷土資料をブラウジング
『磐城平藩政史』に次の記載があった。
「延享四年(一七四七)磐城平藩主内藤氏六代政樹は、(中略)九州日向延岡七万石に転封された。…(中略)…この年の三月、平城下長橋を発して陸路により四月末大阪着、それより海路、瀬戸内海を経て、六月三日、延岡湾五箇瀬川河口に着船、実に七○日余日を要した。家臣の一部は、調度品、墓石などを積んで、薄磯の浜より、船出したが、難破して到着しなかったと伝えられている。」
- 事前調査事項
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お寺の名前は、現在良善寺(りょうぜんじ)。 前は、善正寺(ぜんしょうじ)のはずだ。
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 【資料①】『平の殿さま』[K/210.1-1/イ・1113868168]
- 【資料②】『みちのくいわき ふるさと発見』[K-210.1-1-ヒ-・1110039169]
- 【資料③】『磐城平藩政史』[K-210.5-1-ス-・1111933931]
- キーワード
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- 磐城平藩
- 内藤家
- 菩提寺
- 墓石
- 難破
- 善昌寺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000174197