レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/6/29
- 登録日時
- 2017/08/03 00:30
- 更新日時
- 2024/03/29 00:32
- 提供館
- 金沢市図書館 (2310230)
- 管理番号
- 玉川-000528
- 質問
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解決
【犀川の船着場について】 川船を使っていた時代の犀川の船着場の場所が知りたい。
- 回答
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『金沢市史 通史編2 近世』
p.813-814「渡し舟・伏見川の舟運」犀川では中村・衆免野(示野)村・鷺森村に、舟を各一艘・渡舟水子(水夫・渡し守)を二人ずつ決める、と記載あり。
p.813「木曳川」木倉町、安江木町、木ノ新保、三社揚場等の記載あり。
『金沢市史 資料編10 近世8 生産と生活』p.283
天保10年7月(1839)に、示野村渡し舟があったことがわかる。
『金沢・北陸の城下町 城下町古地図散歩1』(119952792)p.10「金府大絵図」
現在の下菊橋と思われる箇所に舟渡の記載あり。
『金沢古蹟志 第6編』巻15
p.19-20「犀川川除町」
「犀川上川除町は法然寺より下舟場辺まで、犀川中川除町は下舟場辺より大橋辺まで」と書かれていることから、現在の桜橋付近が「下舟場」と呼ばれていたことがわかる。
p.21-22「犀川小橋」
桜畑(現在の寺町3丁目)に犀川小橋が架けられていたが、洪水で流された後は架けられず、私設の渡船になった。
p.25「法然寺前」
明治4年に梅枝(町)舟場町を合併し梅枝町としたと書かれていることから、現在の菊川の法然寺付近(下菊橋付近)にも船着場があったと考えられる。
『金沢古蹟志 第7編』巻17
p.43-44「船場河戸」
千日町入口町家の裏にある犀川の河戸(階段)を船場河戸と呼んだ。犀川橋懸替の時、仮の往来のためここに船橋をかける旧例であった。
『菊川』(119779964)
p.95「川上の位置」
「鞍月用水取入れ口のある油瀬木の堰堤には、犀川上流の瀬領や鴛原で産出する家屋の土台や「竈」に使う瀬領石や、川石を積んだたくさんの舟が着き、ここから馬車で町中へ運んでいた地である」と書かれている。
『加能郷土辞彙』(改訂増補)p.347「サイガワコバシ」
「金沢古蹟志」と同様の記載あり。
『金沢市文化財紀要 200 野田山墓地』(119788088)p.88「墓参」
「御参詣坂(現時工兵営の横道)の下犀川へは仮の船橋懸かる」と記載あり。
現時工兵営とは、現在の平和町のこと。
『玉鉾町史』(118587568)
p.25「三田」
「犀川を利用して舟でここへ石灰・にしん・〆粕その他の肥料等を宮の腰から運んで荷上げした所である」と書かれている。
『歩む菊川』(109088335)
p.30「熱野屋鉄三郎碑」
「藩政時代犀川は水量も豊かで、上流から舟便があった。旧川上新町一帯には船連中が住んでいました」と書かれている。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000219851