1 「塩飽諸島の人名制度はどんな人が特権を有したのか」
次の文章を参考になさってください。
「・・・塩飽の島びとたち650人を豊臣氏の船方に任じ、全島の物成高1250石の地を
領地させた。
この朱印状によって塩飽衆は初めて領地持ちになったのである。当時、領地を持っ
ているものは大名、小名に限られていたが、士分ではない船方であって領地を持てた
のだから、封建制度の時代には極めて特異な存在である。大名、小名に対して自らを
人名と呼んだ。・・・」(「塩飽の島びとたち」p.71-72より)
※すでにお読みになっている「瀬戸内海における塩飽海賊史」にも詳細な説明があり
ます。
2 「塩飽の歴史上森安 西田一族やその親族系統で政治上 経済上なにか重要な地
位にあった人はいるか? 」
次の代表的な香川県の人物事典で、森安、西田という姓を調べましたが、
該当する人物の掲載はありませんでした。
・香川県人物・人名事典 四国新聞社/編 四国新聞社 1985
・香川県大百科事典 四国新聞社出版委員会/編 四国新聞社 1984
・讃岐人名辞書 復刻讃岐叢書 梶原竹軒/著 藤田書店
・香川県人物・人材情報リスト 2002 日外アソシエーツ/編 日外アソシエーツ
2002.1
3 「本島で幕末に海運で活躍した西田屋正十郎とはどんな人か これは真木信夫の
瀬戸内における塩飽海賊史に出ていた」
下記の事典には西田屋正十郎は掲載されていませんでした。
・香川県人物・人名事典 四国新聞社/編 四国新聞社 1985
・香川県大百科事典 四国新聞社出版委員会/編 四国新聞社 1984
・讃岐人名辞書 復刻讃岐叢書 梶原竹軒/著 藤田書店
・香川県人物・人材情報リスト 2002 日外アソシエーツ/編 日外アソシエーツ
2002.1
※当館所蔵の「瀬戸内海における塩飽海賊史」を確認しましたが、西田屋正十郎に関
する記述を発見できませんでした。
4 「本島から神戸に出た真木という家具の創立者とでた塩飽大工の名前などわかる
か? また神戸で活躍した塩飽大工などの氏名わかるか?」
「「神戸家具」の変遷と可能性(神戸芸術工科大大学研究所)」
http://www.r-nagata.co.jp/kobekagu/rekishi1.htmlに以下の記述があり、
「・・・神戸洋家具産業の起源となる業種には、外国人が居留地に持ち込んだ家具の
修理を請け負った修理業と外国人から不要になった家財道具を買い取り再生販売する
道具商の二系統があり、需要の拡大によって製造業に成長した。
前者は、讃岐(香川県)の塩飽(しわく)本島出身の真木徳助(まきとくすけ)が
その祖とされている。真木徳助は明治初期に、生田区加納町あたりに製作所(後の明
治8年「真木製作所」を創業)を設け、西洋人の洋家具の修理や製造を始めた。数年
遅れて1874(明治7)年に、同郷の溝淵和太郎も下山手通に製作所を設けた。また、
明治15年刊行の『豪商神兵湊の魁』には、看板に「三宮横町木本悦次郎『西洋大工
業』」、軒先の暖簾に「西洋イスティフル家具製造所」とある商品陳列タイプの店舗
が掲載されているが、この木本も塩飽の出身者であった。この系列は、既に洋家具を
製造するために必要な基本的な加工技術を持った人々が転業したケースであり、塩飽
諸島の船大工を原点とする「塩飽大工」の技術が洋家具の製造に大きく影響していた
ことが伺える。
神戸洋家具の黎明期を支えた塩飽の人々は、「船大工からの転業」と各所に記載さ
れているが、船大工からの直接的な転業者ではなく、船大工の技術から発展した「塩
飽大工」の技術を持った人々であったと考えられる。当時の塩飽大工にとっては、造
船も社寺や家の建築も一連の高い技術から実現できたもので、得手不得手はあったに
しても、あまり差違はなかったのではないかと考えられる。また、真木徳助自身が大
工の技術を持っていたと言うよりも、真木新造など一族の中に優秀な技術を持った者
がいたと考えられ、伝承的に一族の技術が「真木徳助」という名前に集約されたので
あろう。・・・」
次のことが言えると思われます。
創立者と思われる人物・・・真木徳助
神戸で活躍したと思われる塩飽大工・・・溝淵和太郎、木本悦次郎、真木新造
5 「塩飽騒動とは何か?」
「香川県大百科事典」p.506に項目として簡単な説明があります。
インターネットでも同様な内容が次のように紹介されています。
Http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/4698/newpage3.htm
「・・・昭和6年4月2日には、下津井漁民300余名が、本島の漁業組合長宅を約1
時間にわたり襲撃した。いわゆる、「塩飽騒動」が起きている。事件の発端はこうで
ある。本島・広島・与島・牛島・高見島・瀬居島・左柳島の塩飽諸島は広大な漁業占
有権をもっていたが、下津井の漁民は狭い沖合しか持たないため、江戸時代から塩飽
の各村と協定して操業してきた。明治に入ってもタコつぼなわ、エビこぎあみなどの
免許は塩飽側の組合長に香川県知事の許可を得てもらい、タイ釣りは入漁料まで払っ
ていた。
ところが、昭和5年。本島の組合長から今後一切協定は破棄するとの事。冬の間、
メ
バルの一本釣りで何とか食いつなぎ、春のタイ釣りタコつぼなわで暮らしている下津
井漁民にとっては死活問題である。なんども交渉するがいずれも決裂。4月2日、下津
井尋常小学校で大会を開いたが、下津井組合長は、「わしの力では、もうどうにもな
らん。」と言って会場を出て行ってしまった。
残された漁民は酒を買いに走り、「本島に行ってわしらが直接話をつけよう。」と15
隻の船に分乗し、直談判に向かった。しかし、組合長が不在だったために、家財道具
を壊し、これを阻止しようとした人に暴行を加えた。下津井の漁民が目の前に広がる
海で、自由に操業できないことから始まった悲劇であった。(「世相おかやま」山陽
新聞社 参考)
6 「塩飽の歴史 地元での研究家 大学研究などのいい本あれば教えて下さい」
塩飽や本島の歴史についてわかりやすく書かれた資料を下記に紹介します。
・塩飽の島びとたち よねもとひとし/著 日本出版放送企画 1998.8
・塩飽物語 よねもとひとし/著 近代文芸社 1999.12
・瀬戸内海における塩飽海賊史 真木信夫/著 宮脇書店 1972.12
・地域から学ぶ本島の歴史と文化 丸亀市立本島小学校/編 丸亀市立本島小学校
1982.3
・本島の歴史と民俗 塩飽本島民俗研究会/編 まほろば工房 2003.11
丸亀市役所本島支所(0877-27-3222)に島の歴史について調べられる機関について問
い合わせましたがそういうものはないというお話でした。
塩飽勤番所
Http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/4698/newpage3.htm館になっているそうですが、質問にお答えするような体制にはなっていないそ
うです。