レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年9月20日
- 登録日時
- 2012/09/15 17:29
- 更新日時
- 2012/09/21 11:35
- 管理番号
- 018
- 質問
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解決
尼崎城の城跡が何の痕跡もなくほぼ完全になくなっているのはなぜか?
他の城下町の城跡と比較して、ここまで遺構が消え去っているのはめずらしいのではないか?
- 回答
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明治6年(1873)1月、兵部省から管理を引き継いだ陸軍省が必要とする施設を除き、すべての城郭を大蔵省に移管したうえで処分する方針が示されます(いわゆる「廃城令」)。これにより、全国各地の城郭の建造物の多くが競売にかけられ、部分的に移築され、あるいは取り壊されるなどの経緯をたどりました。
尼崎城の場合も例外ではなく、跡地の大部分や建物・部材などは民間に払い下げられました。明治12年の尼崎港修築工事の際には、本丸石垣900余坪の無償払い下げがあり、防波堤の石垣に転用されました。
残った濠は徐々に埋め立てられて宅地開発などが行なわれ、さらに大正7年(1918)から15年にかけては、公共用地不足のため市が国から内濠の払い下げを受け、埋め立てて市庁舎や学校用地に利用していきました。明治45年の尼崎町議会(大正5年に市制を施行し尼崎市となる)では、こういった濠の埋め立て・活用方針に対して、尼崎城の旧跡が失われることを嘆く町会議員・天野平八(商家出身)がただひとり反対意見を述べるという一幕もありました。
こうして大正末までに外堀にあたる庄下川を除いて濠が埋め立てられ、本丸北側部分にあたる尼崎高等女学校敷地内に残っていた天守山も、昭和6年の敷地内移築を経て昭和30年代後半には姿を消すに至ります。
こういった経緯と、明治期から大正期にかけての尼崎町・市の状況を重ね合わせると、尼崎城の痕跡がほぼ完全に失われた要因として、次の二点が考えられます。
1 大阪近郊に立地し、明治中期以降は急速に都市化・工業化が進展した尼崎町・市域において、早くから都市化にともなう住宅地需要や公共用地不足が生じ、旧城地における濠埋め立てと用地転用が進められたこと。
2 明治前期の経済変動のもと、旧藩士家の多くが早期に経済的に没落したこともあり、旧城の遺跡保存に関心を持ち、それを行動に移すだけの政治力や経済力を兼ね備えた旧士族層の顕著な動きがなく、それに替わる士族層以外からの城跡保存の声もごく小さかったこと。
以上のような経緯を、『図説尼崎の歴史』下巻などの参考文献により、調べることができます。
- 回答プロセス
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1 尼崎城廃城に関する経緯を記述した文献
◆『図説尼崎の歴史』下巻 /Web 版図説尼崎の歴史
近代編第1節2コラム 山崎隆三/地域研究史料館「尼崎城の廃城」
近代編第3節4 島田克彦「都市問題の発生」
2 旧城地の濠が埋め立てられていく過程を視覚的に示す史料
◆地域研究史料館所蔵の各年代の地図及び写真史料
◆デジタル画像180「尼崎城と濠の近代-地域研究史料館所蔵史料から-」
上記の地図や写真に加えて、尼崎町議会の会議録や「尼崎市事務報告書」掲載の関連記事を引用紹介したパワーポイントデータ
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 日本の建築 (521 9版)
- 参考資料
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- 『図説尼崎の歴史』下巻 平成19年発行 (当館請求記号 219/A/ア)
- 「尼崎城と濠の近代-地域研究史料館所蔵史料から-」 (当館請求記号 デジタル画像180)
- キーワード
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- 兵庫県尼崎市
- 尼崎城
- 廃城
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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Web版 図説尼崎の歴史
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000111238