次の関連資料を確認したが、650人の名簿のような内容は見当たらなかった。
(1)瀬戸内海に於ける塩飽海賊史 真木信夫/著 宮脇書店 1972.12
※p.164に次の記述あり。
「・・・天正十八年の豊臣秀吉の領地朱印状によって、塩飽の検知高千二百五十石の領地権は六百五十人の船方に与えられ、これが人名株として配分せられることとなったのであるが、この六百五十というのはその当時の実際の水夫数ではなく、御用船方として何時でも命に応じて出役しなければならない人数であった。・・・」
(2)咸臨丸と塩飽諸島 咸臨丸生誕150周年記念版 木村秀雄/著 2版 塩飽広島歴史研究会 2007.11
※p.7「・・・これが「塩飽検地之事」で始まる秀吉朱印状と呼ばれるもので、塩飽の千二百五十石の領地を六百五十人に領地させた内容の、塩飽の船を御用船とし、六百五十人を御用水主としての性格をもたらした文書だった。・・・この時の六百五十人という数の根拠は次のとおりだ。
一、 人家 四百四十八軒 天正十五年(1590)塩飽七島にこれだけの家があった。
二、回船 二百隻
三、肝煎 二名 塩飽本島の泊と笠島浦から出た。
この合計が六百五十人となる。・・・」
(3)新編丸亀市史 4 丸亀市史編さん委員会/編 丸亀市 1994.1
※p.115「一六九 [塩飽人名共有文書]徳川家康朱印状(折紙)」に650人という記述が含まれるが、名簿等は見当たらなった。