レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2007/02/09 02:10
- 更新日時
- 2007/02/09 09:14
- 管理番号
- C2006M1724-1
- 質問
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解決
立行司木村瀬平(茨城県結城郡水海町の産にして、本名を木村庄五郎といい、五十余年軍配を手に取っていたといわれている人物)について、下記資料の所蔵機関調査および、この人物に関するその他関係資料の紹介。
書名:『木村瀬平』 版元:根岸治右衛門 印刷場:日本橋区薬研堀町厚信社?
出版年:明治31年? 頁数:30p.?
- 回答
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ご照会の資料『木村瀬平』は調査の結果、当館では所蔵しておりません。当館以外の所蔵機関を調査したところ、次の機関で所蔵していることを確認しましたので、書誌事項とあわせてご紹介します。ご利用の際には、ホームページに記載されている連絡先に事前にお問い合わせ下さい。
成田山仏教図書館 http://naributto.michikusa.jp/
請求記号 024-0339
書名 木村瀬平
著者名 根岸 治右衛門
上記のほか、「木村瀬平」に関する記述のある資料を探したところ、次のような資料がありましたのでご紹介します(【】内は当館請求記号)。
・『大相撲人物史』 千人社 1981 【KD971-43】
pp.166-174に「木村瀬平 殉職す」と題した章があり、名行司と謳われた木村瀬平の生涯や行司としてどのような采配をふるっていたかといったことが記載されています。幼少期のエピソードや名乗り方の変遷、物言いがついたときの様子などが比較的詳しく書かれており、当時の新聞に挿絵として掲載された肖像画もあります。
・『大相撲人物大事典』 ベースボール・マガジン社 2001 【KD2-G51】
p.703に木村庄五郎代々の行司の紹介があり、3代目の欄に前名木村庄吾と書かれており、備考欄に「のち6代木村瀬平、年寄兼務。明治38年2月5日現役没」との記載があります。また、同ページの解説文に「3代目は木村庄吾が受け継ぐ。現役中に年寄・木村瀬平二枚鑑礼となり、3人目の地位に昇り瀬平と番付面でも改めて、一旦土俵を退いた。しかし、その技量を惜しむ声が多くふたたび現役に戻り、明治31年5月から現役で没するまで、庄之助の次席で名行司ぶりを発揮した。」と記述されています。
上記の資料のほか、次に挙げる相撲関連資料や人名録などを調べましたが、木村瀬平に関する記述は見当たりませんでした。
・『明治時代の大相撲.復刻版』(大相撲鑑識大系;4) 本の友社 2001 【KD971-G92】
・『相撲の歴史』 山川出版社 1994 【KD971-E158】
・『物語日本相撲史』 筑摩書房 1993 【KD971-E143】
・『大相撲の事典』 東京堂出版 1995 【KD971-G13】
・『近世日本相撲史』 ベースボール・マガジン社 1979 【YP17-44】
・『行司と呼出し』 ベースボール・マガジン社 1957 【788.1-Ki215g】
・『日本人物情報大系』 皓星社 2001 【GB12-G22】
・『図説明治人物事典.文化・学者・実業家』 日外アソシエーツ 2000 【GB12-G24】
また、上記に加えて、明治時代の読売新聞記事を検索することができる読売新聞記事データベースで木村瀬平に関する新聞記事を検索したところ、16件の記事がヒットしましたので、その16件の記事のタイトル・掲載日・掲載ページをご紹介します。なお、これらの記事は『読売新聞.[東京] 縮刷版』(読売新聞東京本社【Z99-1050】)および『読売新聞[マイクロ資料].[東京]』(国立国会図書館(製作) 【YB-41】)でもご覧いただけます。
・相撲行司木村庄五郎が年寄の部に入り、木村瀬平と改名(1891/01/11 3ページ)
・行司・木村瀬平の奉納相撲 18日に浅草・報恩寺で(1895/07/15 3ページ)
・相撲 麹町・平河天神の興行は雨で順延 前田侯邸で凱旋相撲(1895/07/19 3ページ)
・行司・木村瀬平の苦情 草履使用の出願調印書を巡り、自分には連絡ないと(1896/05/24 3ページ)
・横浜花相撲2日目 行司木村瀬平が土俵上で決まり手の解説演説 満場拍手(1896/06/22 6ページ)
・行司木村瀬平の木刀帯用など(1897/02/15 3ページ)
・東京相撲立行司木村瀬平、念願の紫総の軍扇使用の免許を得る(1899/03/16 4ページ)
・大相撲彙報 回向院前の景気、和解祝宴、瀬平が礼参り 和解条件 常陸山 荒岩(1899/05/26 4ページ)
・行司の女房、連合して夫を追う 力士並の艶聞を心配、興行先の宇都宮へ(1900/03/30 3ページ)
・力士・荒岩の速攻、観客には確認無理 行司・木村瀬平の述懐(1900/05/30 4ページ)
・本所小泉町で3人美女が餅つき さすが立行司瀬平の留守家族/東京(1900/12/28 4ページ)
・相撲だより 大砲に横綱免許、木村瀬平に紫房 高砂部屋の移転(1901/04/01 3ページ)
・吉田追風が大相撲熊本興行中の木村瀬平以下三役行司に赤房などの免許与える(1901/04/08 3ページ)
・相撲のいろいろ 力士の場所入り見物・行司木村瀬平の正夢、ほか(1901/05/29 4ページ)
・木村瀬平(立行司) 5日午前5時、心臓麻痺のため自宅で死去(1905/02/06 3ページ)
・相撲雑話 9日までの通札枚数 興行中の炊き出し量 木村瀬平の葬儀(1905/02/07 3ページ)
(インターネットの最終アクセス日2006年12月25日)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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『木村瀬平』の典拠は『江戸時代大相撲』(古河三樹著 雄山閣 1969.7)のp.394。
調査済み資料はNACSIS-Webcat、『国立国会図書館所蔵明治期刊行図書マイクロ版集成』、『国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録』、『明治ニュース事典』(毎日コミュニケーションズ)、国立民族博物館HP、東京大学史料目録、古書店HP。
照会済み機関は大日本相撲協会相撲博物館資料室。
- NDC
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- 相撲.拳闘.競馬 (788 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 相撲
- 行司
- 木村瀬平
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 大学図書館
- 登録番号
- 1000033275