レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年05月03日
- 登録日時
- 2015/05/07 16:23
- 更新日時
- 2020/11/28 11:26
- 管理番号
- 牛久-1329
- 質問
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解決
茨城民謡といわれる「もずが枯木で」の作曲者である徳富繁の出身が奄美大島なのはわかっているが、
曲が東京でできた歌という説と茨城でできたという説があり、どちらが正しいか調べたい。
また、徳富繁が牛久に住んでいたのは、「もずが枯れ木で」が茨城民謡といわれていたことと関係あるのか。
- 回答
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『牛久市史研究 第7号』(牛久市史編さん委員会/牛久市/1998)のp72~p93に
“東京の板橋第六尋常小学校時代に、サトウハチロー作詞の「百舌よ泣くな」という詩に
作曲し、ガリ版で50部刷って知人に配った。”という記述があるので、
東京でできたという説が正しいのではないかと思われる。
同書の記述に、“牛久に住んだのは昭和53年8月8日。定年になり、都内よりも落ち着く場所ということで、
姉に聞いたら牛久が環境のよいところということで選んだ。”とあり、牛久に住んでいたから
「もずが枯木で」が茨城民謡と言われていたことに直接は関係ないようだ。
- 回答プロセス
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牛久市関係の資料の目次を確認。
→『牛久市史研究 第7号』(牛久市史編さん委員会/牛久市/1998)の
p72~「◆調査報告「もずが枯木で」の作曲者を探して」とあり。
確認すると、以下のような記述あり。
“「もずが枯木で」サトウハチロー作詞 徳富繁作曲 昭和13年9月18日作
徳富さんは、この歌は昭和13年東京の板橋第六尋常小学校時代に、サトウハチロー作詞の「百舌よ泣くな」という詩に
作曲し、ガリ版で50部刷って知人に配った。一般には発表されなかったが戦争中陸軍病院の慰問に教え子たちに歌ってもらった。
野口肇さんのハガキより
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参議院議員の選挙の時、応援に来てくれた学生たちがとてもいい歌を歌っている。
1人の女子学生が学童疎開で茨城に行っていた頃に覚えた歌。
良い歌なので、「日本のうたごえ」ニュース第二号に題知らずの茨城の歌として掲載。
要求が多く増版を繰り返し、1953年度には青年歌集第三篇に茨城民謡として収録。
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徳富さんは戦時中の疎開からの上京後、第6回東京都教育音楽会で歌われた
「もずが枯木で」がどうも聞いたことがある。自分のメロディと思うが、茨城民謡となっている。
また、昭和31年頃映画「ビルマの竪琴」の中で使われているのを知る。
その後、徳富氏がサトウハチローに手紙を書く。サトウハチローも手紙をもらうまでは知らなかった。
サトウハチロー氏の憤慨した記事が昭和31年4月8日「東京タイムズ」に「青年歌集が無断で借用」という
見出しで掲載。結局「もずが枯木で」は徳富氏のガリ版刷りの原稿が決め手となり、
著作権協会によって作詞者サトウハチロー、作曲者徳富繁と認められるようになる。
~(中略)~
牛久に住んだのは昭和53年8月8日。定年になり、都内よりも落ち着く場所ということで、
姉に聞いたら牛久が環境のよいところということで選んだ。”
上記の記述から、「もずが枯木で」は東京でできたという説が正しく、
茨城民謡とされたのは、女子学生が学童疎開で茨城に行っていた頃に覚えた歌であるため、
徳富氏が牛久に住んだのは、「もずが枯木で」が茨城民謡といわれていたこととは関係ない
(別の理由がある)ことがわかった。
以上のことを質問者に説明し、レファレンス終了。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 8版)
- 言語 (8)
- 参考資料
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- 牛久市史編さん委員会/編集. 牛久市史研究 第7号. 牛久市, 1998.2.
- 牛久市議会会議録 平成4年第4回臨時会. 牛久市議会, 1992.
- キーワード
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- もずが枯れ木で
- 徳富繁
- 茨城民謡
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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2020.11.28追加調査
・『牛久市議会会議録 平成4年第4回臨時会』(牛久市議会/1992)
…p43に作曲家の徳富繁氏は牛久市のみどりの野に住んでいたとの記載あり。
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般男性
- 登録番号
- 1000174311