1.正栄斎と幸信が同一人物であるという証拠は見当たらない。
「狩野正栄」という名前は辞書に載っているが、「狩野正栄斎」という名では辞書に載っていない。
「狩野幸信」という名前は辞書に載っているが、その人が「狩野正栄」という記述はない。
『大日本書画名家大鑑 伝記 上編』 荒木矩/編 第一書房 1980
・正栄 p.458「狩野正栄、名は至信、法橋に叙せられる、寛政二年八月禁裡御殿廻筆者の一人」
「幸信」の項目を引くと4名の名前が記載されている。(p.1160)
・狩野素川幸信、宗巴種信傳を見よ。(p.979)
「画 狩野宗巴 一に宗也 源三郎入道、医師、卒年三十一、天正年中の人」、
・狩野洞晴幸信、狩野照政を見よ。(p.2280)
「狩野照政、松伯の養子なり、実は織田信定の五男、右衛門尉信利の孫にして、与平衛満定の男なり、通称は甚七郎、五歳の時に両親病死せるを以て叔父松伯に養はる、松平越後守光長に仕へたりしが、光長 州松山に移さるるに及び浪人せり、延実四年二月六日殉す、越後高田軒法寺に葬る(松伯傳参照)
・狩野洞学幸信、狩野照政を見よ。
・狩野興雲の名、狩野興以を見よ。(p.2570)
「狩野興以 一に興意、名は定信、字は中里、通称は彌左衛門 一に彌兵衛」とある。
『日本画家辞典 人名篇』 沢田章/編 大学堂書店 1974
正栄 p.271
幸信p.181 「狩野洞晴(トウセイ)」、「狩野洞学(トウガク)」の2人の名前が記されている。
・「狩野洞晴(トウセイ)」(p.457)
「狩野洞晴 画家、通称与六、又喜兵衛といふ、永徳の養子、実は松伯の孫甚四郎照政の男なり、越後中将光長に仕ふ」
・「狩野洞学(トウガク)」(p.448)
「狩野洞学 画家、名は幸信、始め三之丞と称す。洞晴の男なり、享保五年四月十四日作州津由城主松平越後神信宣富に仕ふ、延亨二年五月四日殉す」
(斎について)
『日本国語大辞典 第5巻』 小学館国語辞典編集部/編集 小学館 2001.5
p.1245「雅号、屋号、芸名などにそえる語。」とあるので、名前そのものではないと考えられる。
2.『肉筆浮世絵大観 9 奈良県立美術館/京都府立総合資料館 講談社 1996.10
p.174「朗卿については、文化十二年(一八一五)版『江戸当時 諸家人名録』に「画 香雪 名朗卿 江戸人 深川仲人 田中米蔵」とある人と考えられる。同じ情報が『諸家人名 江戸方角分』にも記載されている。
『森銑三著作集 第3巻』 森銑三/著 中央公論社 1988.12
p.181「朗卿、田中米蔵、名-、号香雪、文兆高弟、書家玉峰則為舎弟」
『大日本書画名家大鑑 伝記』
p.1954「朗卿:浅草香雪の号」
p.1403に「香雪」は6人記載があるが、浅草香雪の記載はない。
・田中香雪、通称圭蔵、文政頃の南書画。
・山田香雪、名は意誠、字は正卿、通称は真静、洞雪の男、天保頃。
『日本画家辞典』
p.183「香雪」山田香雪 書家、名は意誠、字は正卿、通称真静、洞雪の男なり、江戸浅草に住す、天保中の人。