1 新聞記事
マイクロフィルムから、「東京日日新聞」大正5年3月10日(金)7面にご指定の記事を確認しました。
当該記事は、天皇は理化学に熱心で、動植物への研さんも深く日光避暑中には高山植物を採取した…という文脈のもので、日光で採取した具体的な植物名や採取時期の情報は確認できませんでした。
2 大正天皇の日光滞在について
・『大正天皇実録 第1 補訂版』(宮内省図書寮/編修 岩壁義光/補訂 ゆまに書房 2016)
・『大正天皇実録 第2 補訂版』(宮内省図書寮/編修 岩壁義光/補訂 ゆまに書房 2017)
宮内省公文書館蔵の翻刻です。全6巻予定で、調査当時は2巻まで刊行されており、明治12から明治40年までの記録が確認できました。
日光滞在は例年主に夏で、訪れた場所や面会相手など一日の行動を詳しく記録している年もあります。
既刊分について、行啓に田母沢御用邸が使用されるようになった明治32年以降の日光滞在の記録を確認しましたが、植物採集の記事は確認できませんでした。
3 日光市内にある植物園との関わりについて
植物採集に関する具体的な記述ではありませんが、日光市内の植物園との関わりについて、以下の記述を確認できました。
(1)日光植物園(東京大学理学部附属植物園日光分園)
・『日光市史 下巻 近現代・民俗』(日光市史編さん委員会/編 日光市 1979)
第六章 文化財の保護と皇室関係施設
p.331-333「第四節 田母沢御用邸の設置」
大正天皇の皇太子時代の行啓について、時期や滞在中の動向等に関する記述があります。
p.350-356「第六節 日光植物園 2 大正天皇行幸記念公園」
大正天皇、田母沢御用邸と植物園の関係について記述があります。
p.350「大正天皇と日光植物園の関係は浅からぬものがあった。大正天皇は、別記のように東宮の頃から、しばしば日光に来られた。そしてそのたびに宿所である田母沢御用邸に隣接するこの植物分園を散歩された。」等
p.353-354「現在の植物園は、『日光分園概況』によると、昭和二十五年(1950)十一月二十一日旧田母沢御用邸庭園の一部を大蔵省から受け入れた。」
(2)齩菜園
調査の過程で、大正天皇が東宮時代に日光市内にあった五百城文哉の私設の植物園「齩菜園」を訪れた記録を確認しました。
・『創設期の東京帝国大学附属植物園日光分園におけるロックガーデンの整備について』(西村公宏/著 〔日本造園学会〕 2015)
※「ランドスケープ研究 vol.78 no.5」の抜刷(p.449-454)
本文中で、明治37(1904)年12月発行の「園藝界」1(3)に掲載された五百城の記事「高山植物園の由來」を引用し、皇太子の行啓が高山園(ロックガーデン)築造のきっかけとなったと記されています。
なお、前出の『日光市史 下巻 近現代・民俗』における齩菜園の記述は次のとおりです。
p.354-355「日光にあっては五百城文哉が高山植物を愛好し、友人の愛好家、城一馬とともに植物を採集し、丹念に写生をして、前述のように自分の庭(齩菜園)をロックガーデン式に作り、そこに殖培した。日光を訪れる多くの学者たちは彼とこの齩菜園に注目して立寄っている。」