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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000196515
提供館
(Library)
長野市立長野図書館 (2310222)管理番号
(Control number)
長野市立長野-16-014
事例作成日
(Creation date)
2016年08月13日登録日時
(Registration date)
2016年08月31日 17時47分更新日時
(Last update)
2017年07月17日 15時17分
質問
(Question)
佐久香坂明泉寺の塔の建立と廃滅年を探している。出来たら当時の高さ等も知りたい。
回答
(Answer)
建久の年に源頼朝が浅間山に狩した際に寺の再興を思い出し、速やかに三重塔一基を造立させた。(『信濃宝鑑 (上)』)
天正年間、武田勝頼が再建したが焼失したといわれている。(『信濃宝鑑 (上)』、『佐久市志 歴史編2』)


建久の年に源頼朝が三原(浅間山麓、若しくは嬬恋村の三原)に狩に来た記録は吾妻鑑などの史料にはあったが、あくまで伝承が残るのみであり、また武田勝頼の再建に関しても、天正年佐久は武田氏の統治下であったということ、武田信玄が仏教を保護していたこと、また信玄自身は密教に深く関わっていたことの記述はあれど、明泉寺につながる記述はみつけることができなかった。
回答プロセス
(Answering process)
『長野県町村誌 第2巻 東信篇』(郷土出版社 1985)p2205 香坂村の項に明泉寺あり。
「東西三十間、南北十五間一尺八寸、面積一反五畝九歩天台宗延暦寺末派なり。天長三年丙午七月十六日、延暦寺慈覚大師開基創建すと伝ふ。寺傳にして確乎たらず。」

『佐久市志 歴史編2』(佐久市志刊行会 1993)p254に閼伽流山の項あり。こちらも改創等簡単なことが載るのみである。
「平安時代に山岳信仰にもとづいて建てられたのであろう。武田氏にも厚く保護されていた。閼伽とは仏に奉る水のことで、この山も水信仰と関係があるらしい。…」

『日本歴史地名大系 20』(平凡社 1979)p114に明泉寺の項あり。こちらも内容はおおよそ同じ。
「天台宗比叡山直末、山号は閼伽流山、本尊千手観音。…」

『信濃宝鑑 (上)』p38に明泉寺の項あり。
「天台宗にして本尊は千手観音なり。本寺の創立は人皇五十三代淳和天皇の御宇、天長三年(今を去る千七十六年)にして、比叡山延暦寺第二祖滋覚大師の開基たり・・・」

この中で塔の記述が途中にみつかる。
「後ち三百余年、建久の年、右大将頼朝が当国浅間山に狩し、心願ありて本寺再興のことを思ひ立たされければ、速かに三重の宝塔一基造立す。依て其の年、一邑の貢を免され、且つ田園若干を寄せられ尊崇他に異りき。天文十六年八月武田晴信は隣邑滋賀の城主笠原昌朝を攻め之れを亡し、且つ密かに本山に命じて村上義清などの怨敵退治の祈念を為さしめ、ついに敵徒没落す。因て仏恩報謝の為め、天国の太刀、並びに法眼元信の絵馬を納む。今尚ほ当寺に伝ふ。天正年間、武田勝頼が堂塔の破壊せしを修理し、朱印地三十五貫文を先蹤の如く寄附せらる。」


この記述を参考に頼朝が浅間山に狩りに来た記述を探してみる。
『全譯吾妻鏡 第2巻 新版』p273 建久四年三月二一日の「頼朝、那須野・三原倉に進發す」で、信濃國三原等に向かった項がある。

『曾我物語』p197~207に、(淺間の御狩の事)や(三原野の御狩の事)として記述がある。
(そもそも曾我物語自体は正史ではないので信憑性において疑問、とする説があるよう。)

p204の「三原野」の注において吾妻鏡にふれられており、
「大日本地名辞書では、信濃国三原ということから、「長倉、枯井、塩野など朝間の裙野ならん」と考えている。しかし、真名本には、「見三原狩倉共、三箇日有御逗留、浅間麓離山、小松手向、那城松原、年行三子沢、甲賀三郎諏方自維縵国被出神出山奥、置部松原、借屋戸、縵持坂、見処々珍重」とある。それによると、この三原野は、群馬県吾妻郡嬬恋村に属するか。」とあり。

どちらにせよ、頼朝が三原(浅間山麓、若しくは嬬恋村の三原)に狩に来ていたという記述になる。


『佐久口碑伝説集 北佐久編』(佐久教育会 1978)
頼朝に関する伝説として残っている記述が発見できたのみだった。
(p156「鞍掛石」p176「逆さ藤」p177「真楽寺の逆さ梅」p349、350「馬取萱」「馬越」)

他、建久年に頼朝が信濃にきたのは建久八年の善光寺参詣であるが、吾妻鑑では建久八年が抜けているためにそれ以上は不明。

こうした頼朝の伝説は佐久の一部地域に残っており、伝説として伝わるが浅間山に来たかは不明である。

色々と閲覧してみたが『信濃宝鑑』の堂塔の記述を確かとする事までは追えなかった。


廃滅年に関してあたっていく。
『信濃宝鑑 (上)』によれば「天正年間、武田勝頼が堂塔の破壊せしを修理し、朱印地三十五貫文を先蹤の如く寄附せらる。」とある。

『佐久市志』p499には「香坂の天台宗の明泉寺は、天正年間(一五七三~九二)に武田勝頼が再建したが焼失したという伝承がある。」という一文があるのみである。
その他寺や仏塔の廃滅に関わるような記述は見つからなかった。


あくまで史料的に残る文面として探せたものとし、以上をもって案内とした。
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC 
参考資料
(Reference materials)
『信濃宝鑑 (上)』 歴史図書社 1974.07 <N290/シ/1> (p38,図156)
『佐久市志 歴史編2』 佐久市志編纂委員会/編纂 佐久市志刊行会 1993 <N223サ2> (p254 閼伽流山)
『全譯吾妻鏡 第2巻 新版』 永原 慶二/監修 新人物往来社 2011.11 <210.4セ2> (p273 頼朝、那須野・三原倉に進發す p275 富士野の狩倉)
『曾我物語』 市古 貞次/校注 岩波書店 1992.2 <913.43ソ>, ISBN 4-00-004495-8 (p197~207)
キーワード
(Keywords)
佐久
香坂
明泉寺
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
登録番号
(Registration number)
1000196515解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
未解決
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