(1)『岡山県大百科事典』(全2巻,岡山 山陽新聞社,1980年)および、岡山県立図書館電子図書館システム「デジタル岡山大百科」の「郷土情報ネットワーク」を確認するが、該当の記載はない。
(2)戦前の岡山の歴史を確認するため、『岡山の女性と暮らし 「戦前・戦中」の歩み』(資料①)を見ると、昭和8年の項目に以下の記載がある。
○三勇士について“つくられた軍神「肉弾三勇士」”として、以下のような説明がある。
・「前年(昭和7年)1月の上海事変勃発から1か月後の2月22日、日本軍は廟行鎮の攻撃に苦戦していた。集落周囲の鉄条網爆破のため3人の兵士が、点火した破壊筒を抱えて突撃し爆死した。全員22歳の若者であった。陸軍は“覚悟の自爆”と発表し、早速“軍神”として顕彰する意向をしめした。しかし三人の死は、爆死発表直後から技術ミス、事故死説があった。」
○「爆弾三勇士表忠塔」について次のような記載がある。
・「前年から“三勇士”映画会などを行ってきた岡山市では、1月10日、市内小学生1万7000人の献金活動により、東山神宮奉斎殿前に“爆弾三勇士表忠塔”が建てられ、除幕式が実施された。」
・「2月22日の一周年記念日には、全市内児童は、三兵士が一斉突撃した午前5時に徒歩行進して表忠塔に参拝した。」
(3)資料①の「東山神宮奉斎殿前に“爆弾三勇士表忠塔”が建てられ」という記述を元に、「東山神宮奉斎殿」について調査する。岡山県立図書館蔵書検索システムにて「奉斎殿」というキーワードを入れて検索すると、『東山大神宮奉斎殿献詠 第9回』(資料②)という資料がヒットする。この資料を確認すると、表紙に「岡山市東山公園内 神宮奉斎会岡山本部献詠会」という記載があり、岡山市の東山公園内に神宮奉斎会があったことが確認できる。
(4)さらに、資料①を元に、『山陽新報』にて表忠塔の除幕式と三勇士一周年記念の記事を調べる。前者は1933年(昭和8)1月10日夕刊(資料③)に、後者は同年2月22日夕刊(資料④)では三勇士一周年記念の記事が掲載されている。特に、資料③には写真が掲載され、「早暁東山公園三勇士表忠碑に額づく弘西校兒童」という一文が添えられており、表忠塔が東山公園にあったことを確認できる。
(5)上記(4)を元に、東山公園の関連資料を調べる。
『操山を歩く』(資料⑤)には下記の記載がある。
・「江戸時代、東山公園は多くの神社仏閣で埋まっていた。(中略)明治2年(1869)、北の丘の愛宕神社跡に、戊辰戦争の戦死者を祀る招魂社を建立(現在、奥市にある護国神社の前身)。奥市へ移転後は、伊勢神宮を祀る神宮奉斎殿として結婚式場などに利用されていたが、戦災で消失した。」
・「現在は、小動物園、子供遊具、石踏健康器具、小グラウンド、桜並木、雑木林、東山集会所があり市民憩いの公園になっている。」
以上より、この資料には「爆弾三勇士表忠塔」が現存しているかどうかは記載はないが、東山公園が戦災を受けていることが記載されている。
(6)『岡山市史 戦災復興編』(資料⑥)には、「戦災神社の復興」についての記述があり、その中の神宮奉斎殿の項目にて、「空襲のときは焼夷弾を受けて一群の建物を全焼した。そのうちに終戦になったが神宮奉斎会はその性格からして存続することができず、焼け跡は空地のままになっている。」と記載がある。
以上より、この資料には「爆弾三勇士表忠塔」が現存しているかどうかは記載はないが、神宮奉斎殿が戦災を受けていることが記載されている。
(7)このほか、参考資料として『少国民Tの戦争』(資料⑦)にも、東山公園や爆弾三勇士碑についての記載がある。