レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年03月01日
- 登録日時
- 2012/09/22 10:51
- 更新日時
- 2014/03/27 12:05
- 管理番号
- 県立長野-12-009
- 質問
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解決
善光寺の弥栄神社の由来がわかる資料を紹介してほしい。
- 回答
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以下の資料を紹介した([ ]内当館請求記号)。
①『長野市誌 第8巻 旧市町村史編 旧上水内郡・旧上高井郡』長野市誌編さん委員会編 長野市 1997
[N212/318/8]
p44「弥栄神社」の項目に、「旧長野の祇園祭は妻科聖徳の槻の大木で天王おろしをし、その神霊をこの場所へ お移しすることになっていた」と記載あり。
②『長野県町村誌 北信篇』(復刻版)名著出版 1973[N290/33a/1]
p108「弥栄神社」の項目に勧請年暦不詳とあり。
③『長野御祭礼史』小林計一郎著 長野御祭礼研究会 1971[N386/27]
p15から「祇園祭の順序」の項あり。p15~19に上記①に記載のある妻科聖徳の槻の大木で天王おろしをする 説明から始まり、弥栄神社境内のひもろぎ石や弥栄神社の社殿の写真と解説あり。
p164 宮沢義一編『大長野市』(昭和2年)からの引用文があり、「祇園祭礼由来」の項に「弥栄神社」について 「建久年間頼朝下向の砌、除疫のため弥栄神社を創立した。安永3年(1774)大勧進住職が本社及拝殿を寄附 して宮社を形造った。(以下略)」の記述あり。
p169「頼朝公が信濃下向のとき疫病除けに祀ったと伝えられ」との記載あり。
p179「長野御祭礼年表」に「天王社社殿建立。大勧進孝覚の寄進」の記述があり。
なお「弥栄神社」について『吾妻鏡』『信濃史料』に手掛かりとなる記録は確認できなかったが、以下の資料に「頼 朝の善光寺参詣は建久8年」とする説の記載あり。
『源頼朝の真像』黒田日出男著 角川書店 2011[N713/10]p135~140
また「弥栄神社」に触れた雑誌記事として、上記③『長野御祭礼史』と内容的に重なる部分もあるが、祇園祭特集のうちに以下のものあり。
④雑誌『長野 第14号』長野郷土史研究会(昭和42年7月)「祇園祭特集」所収、
p15~29小林計一郎著『長野の祇園祭の歴史』
p29~37依田康資著『御祭礼資料片々』
- 回答プロセス
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①『善光寺御開帳』p31の善光寺の地図で弥栄神社の位置を確認。『長野市誌』『長野県町村誌 北信篇』等、
長野市関係資料で「弥栄神社」の項目を確認。
②『信州百寺』p68に「源頼朝が治承3年(1179)に焼失したままになっていた善光寺を建久2年(1191)に再興。 頼朝自身も参拝したと伝えられる」との記述を確認。
③『長野御祭礼史』の「祇園祭礼由来」の項に「弥栄神社」について記載あり。『大長野市』(昭和2年)からの引用で 「祇園祭礼由来」の項があり源頼朝下向に纏わる記述あり。鎌倉幕府に関わることなので『吾妻鏡』と『信濃史料』 を検索。「弥栄神社」について『吾妻鏡』『信濃史料』に手掛かりとなる記録は確認できず。
④頼朝に関わる他の資料を探す。『源頼朝の真像』p135~140に頼朝と善光寺に関わる記載があり「頼朝の善光 寺参詣は建久8年」とする説についても記事があり。弥栄神社については記述なし。紹介資料の質問者の近隣の 図書館での所蔵も確認し併せて紹介。
⑤郷土雑誌の記事索引で「弥栄神社」「善光寺」「祇園祭」をキーワードに検索。雑誌『長野 第14号』「祇園祭特 集」所収の『長野の祇園祭の歴史』『御祭礼資料片々』に「弥栄神社」に触れた記事があり紹介。
- 事前調査事項
- NDC
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- 神社.神職 (175)
- 参考資料
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- 『善光寺御開帳』信濃毎日新聞社 2003[N181/204]
- 『信濃史料 索引』信濃史料刊行会 1972[N208/28a/31]
- 『現代語訳 吾妻鏡5』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館 2009[210.42/ゴフ/5]
- 『同上 6』同上 [210.42/ゴフ/6]
- 『源頼朝の真像』黒田日出男著 角川書店 2011[N713/10]
- 『信州百寺』信濃毎日新聞社 1980[N180/28]
- キーワード
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- 弥栄神社
- 善光寺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000111665