レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年04月30日
- 登録日時
- 2011/05/09 13:31
- 更新日時
- 2022/12/22 16:30
- 提供館
- 京都市図書館 (2210023)
- 管理番号
- 右中-郷土-37
- 質問
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解決
京都府伏見町から京都府伏見市へ移行した経緯が知りたい。また,伏見市が2年ほどで京都市に編入されたのはなぜか。
※旧京都府伏見市は現在の京都府京都市伏見区地域に該当する。
- 回答
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京都府伏見町の市昇格の要望は明治時代から芽生えていて,大正期における好況と町の発展が市制移行の気運を高め,ついに昭和4年(1929)5月に京都府「伏見市」が誕生した。
しかし財政的な行き詰まりや,全国的に町村合併が進められていた当時の情勢もあり,市誕生からわずか1年10カ月後,昭和6年(1931)4月伏見市・深草町を中心とした南部地域の合併によって京都市伏見区が成立した。
詳細については【資料1】から【資料6】を参照。
- 回答プロセス
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●伏見の歴史から
【資料1】伏見町は昭和4年に市制を施行し,わずか2年後に京都市と合併した。
市制施行の経緯については記述なし。京都市との合併については市制施行自体に京都市との合併の条件作りという側面があったと述べている。
【資料2】伏見町が独立市制に移行し,さらに京都市と合併した背景と経過を説明している。
①伏見市制の要望は明治30年代には芽生えていた。
②大正期における伏見醸造界の好況と,官営奈良線,京阪電鉄,奈良電鉄,市営電車が伏見地区を通過するようになったことで,町勢が発展し,市制移行の気運が高まった。
③昭和4年4月伏見町が市制施行を京都府に申請し,京都府もこれを受け入れ,内務大臣の認可を経て,昭和4年5月に「伏見市」が誕生した。
(ただし,伏見市の誕生には京都市への合併を認めるという条件があった。折から三部制撤廃という地方行政制度を根本的に改変する事態が進行しており,京都側においては府を中心に京都市への町村合併を促進する調査委員会が設置されていた。中でも伏見を含む南部地域の合併は大きな課題になっていた。こうしたところから,伏見側は伏見市昇格申請にあたって,市昇格の後であっても京都市との合併を拒否するものではないという一札をとられていた。)
④伏見市誕生2年後,伏見市が財政上行き詰まると京都市と合併せざるをえない状況になった。
⑤合併条件を中心にした京都市側との駆け引きが繰り返され,伏見側は21か条と希望条件9か条を京都市に突き付けた。この要求は一部を除いてほぼ京都市側に受け入れられた。
⑥昭和6年3月,伏見市会は京都市との合併を条件付きで認めるとの議決を行った。
⑦昭和6年4月,伏見市・深草町を中心とした南部地域の合併によって伏見区が誕生。京都の市域の含まれることになった。
●伏見市長「中野種一郎」の伝記から
【資料3】中野種一郎は元伏見町長にして,最初で最後の伏見市長を務めた人物である。
「京伏合併」の章は,合併に際しての伏見市と京都市間の政治的駆け引きが詳しい。
・伏見町が伏見市として独立する時も,京都市側の京伏合併論は存在していて議論は紛糾し,京都市側はさしあたり伏見市の独立を認めるが,将来隣接町村編入が行われる場合は伏見市もそれを拒まないという一書を伏見側に提出させることで譲歩して,伏見市制実施を認めた。
・市昇格後,中野種一郎氏には伏見市を中心に隣接町村を吸収合併し,大伏見市を誕生させたいという夢があったが,他の町村の賛同が得られず断念した。
・京都市と伏見市との合併は伏見町が市に昇格した1年10カ月後のことであり,時期尚早として反対意見も根強く,妥協案として伏見側から30カ条の合併条件が出され,京都市側はほぼそれを受け入れることで合併が行われた。
・時代背景として日本政府は郡制廃止後,通牒を発して町村合併を勧奨している。全国的に大正13年(1924)に39,大正14年(1925)に101,大正15年(1926)に35,昭和2年(1927)には72の合併がみられる。
京都府でもすでに大正6年(1917)京都府知事が京都市編入に対する意見を正式に発表している。そして同年には一部町村の京都市への合併がすすめられ,京都市が周辺市町村の合併を目論んでいることは公然と流布されていたので,京伏合併は避けられないだろうという空気もあったようである。
加えて,府・市・群部の三部経済制のが昭和6年4月に撤廃されることが決定していて,これと呼応して昭和5年8月には,伏見市及び隣接3町16カ村を京都市に編入する案がまとめられた。
●「京伏合併」から
【資料4】旧伏見市が発行した記念誌なので,伏見市側の視点に立っている。
p27~44「市制実施に至る経過」
p199~226「京伏合併経過」
それぞれ町会,市会での会議録が引用されており,議論の経過がよく分かる。
●三部経済制について
【資料5】p1~29「京都府財政構造の転換と三部経済制度廃止論の台頭」
三部経済制度は明治14年(1881)から昭和5年(1930)まで京都府財政で運用された。
京都府の財政を市部経済とそれ以外の郡部経済,市部と郡部の相互の利益にかかわる連帯経済の三部に分けて組織し,市部と郡部で別の課税体系が実施し,別財政で運用する制度である。
市部と群部の相互の産業上の特質や文化的差異を考慮し,両者の財政組織と議決機関を区分して府県会の円滑な運用をはかる目的であったが,農村部の衰退が進むにつれて,郡部・府下市町村の独立経済が成り立たなくなったため,京都市への編入・合併が望まれるようになった。
参考文献として【資料6】が挙げられている。
【資料6】京都府内の市町村合併の流れの中での伏見市独立及び合併の位置づけがよく分かる。
京都府全体で市町村合併が進められた背景にも触れている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 8版)
- 参考資料
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- 【資料1】『史料京都の歴史 16 伏見区』(京都市編 平凡社 1991)p56~57
- 【資料2】『桃山』(林屋辰三郎編 京都桃山ライオンズクラブ 1976)p246~249
- 【資料3】『中野種一郎翁伝』(「中野種一郎翁伝」刊行発起人会編 鹿島研究所出版会 1972)p87~96
- 【資料4】『京伏合併記念伏見市誌』(京伏合併記念会 1935)p27~44,p199~226
- 【資料5】『京都市歴史資料館紀要 第16号』(京都市歴史資料館 1999)p1~29
- 【資料6】『京都府市町村合併史』(京都府立総合資料館編 京都府発行 1968)
- キーワード
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- 三部経済制度
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000085948