レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年09月02日
- 登録日時
- 2010/09/02 12:50
- 更新日時
- 2012/12/22 15:57
- 管理番号
- 国際友好2 小宮、宮﨑
- 質問
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解決
海峡ドラマシップで北前船の模型を見たのですが、北前船とは何ですか。
樽廻船、菱垣廻船とはどう違うのでしょうか。
- 回答
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『国史大辞典第4巻(き~く)』によると、北前船とは「広義には北国廻船の別称。つまり江戸時代から明治時代に、上方と北国筋や北海道方面との貿易に従事した北陸地方を中心とする日本海域の廻船を総称して呼んだもの」ということですが、その語源や定義については諸説があって定説はないそうです。『関門海峡渡船史』には、江戸中期から明治二十年頃までにかけて盛んに使われていた「大和型帆船つまり弁財船で、船の大きさは二百石から千五百石くらい」だったとあります。上方の弁財船に比べ安定性をよくし積載量が多くなるように船型や構造を変えており、一見して北前船と識別できるほどだったようです。
1672年(寛文12年)、河村瑞賢により西廻り航路が整備されて以来、赤間関(下関)は、北前船による流通拠点港として人・物・情報が集散する、西国一の港湾都市に発展しました。また門司の田野浦は下関に寄港した船を「たでる(船喰虫の殺虫や乾燥のため船腹をシダ類の火であぶること又は船の修理のこと)」ことにより下関と繁栄をともにしました。
『菱垣廻船は、元和5年(1619)堺の商人が始めた大阪・江戸間の主力廻船で、菱垣の名称は船側垣立部分の筋を菱組の格子に組んだのに由来すると言われていますが、諸説あるようです。元禄のころ(1688~1703年)には五百石級で、安政期には(1818~1829)ほぼ二千石に達していました。しかし享保15年(1730)に速さの面で勝った酒荷専門の樽廻船が出現した為、菱垣廻船は天保の頃(1830~1843)には減少しました。
樽廻船とは、酒樽を積むのに適した構造の大和型船で、享保15年(1730)に始まりました。また、『江戸時代 船と航路の歴史』には、1770年頃より酒の他に米・砂糖・醤油なども積むようになり、明治初年まで盛んに活躍したとの記述もあります。
門司には北前船にちなんだ民話が伝承されています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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『関門海峡渡船史』 沢 忠宏/著 梓書院 2004年
(43~46頁) -
『北前船』 牧野 隆信/著 柏選書 1972年
(12~17頁) - 『江戸時代 舟と航路の歴史』 横倉 辰次/著 雄山閣 1971年 <683.2/ヨ> (17,20~21,22~38頁)
- 『国史大辞典第4巻(き~く)』第一版第三刷 国史大辞典編集委員会 吉川弘文館 1990年 <210/コ・4> (135~136頁)
- 『国史大辞典第9巻(たか~て)』第一版第二刷 国史大辞典編集委員会 吉川弘文館 1991年 <210/コ・9> (314~315頁)
- 『国史大辞典第11巻(にた~ひ)』第一版第一刷 国史大辞典編集委員会 吉川弘文館 1990年 <210/コ・4> (833~834頁)
- 『内海産業と水運の史的研究』福尾猛市郎編 吉川弘文館 1966年 <682.1/フ> (159~196頁)
- 『北前船』郷土 第5集 上田強 下関郷土会編集・発行 1962年 <217.7/シ・5> (15~21頁)
- 『下関市史・藩制-市制施行』 下関市市史編集委員会編 下関市 2009年 <217.7/シ・2> (273頁)
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『北九州市史 近世』 北九州市史編さん委員会編 北九州市 1990年
(633頁) -
『北九州市史 民俗』 北九州市史編さん委員会編 北九州市 1989年
(810~811頁) -
『北九州の民話 (第二集)』 大隈岩雄 小倉郷土会 1984年
(112~117頁)
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『関門海峡渡船史』 沢 忠宏/著 梓書院 2004年
- キーワード
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- 北前船
- 樽廻船
- 菱垣廻船
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000070694