レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2008年09月08日
- 登録日時
- 2008/09/08 10:44
- 更新日時
- 2014/02/21 15:37
- 管理番号
- ike-081
- 質問
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未解決
福井藩医であった岩佐純(1835-1912)は、浮世絵師・岩佐又兵衛(1578-1650)の末裔か。
- 回答
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不明
- 回答プロセス
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① 『三百藩家臣人名事典 3』(新人物往来社)によると
岩佐又兵衛:天正6年(1578年)~慶安3年(1650) 画家。名は勝以。摂津伊丹城荒木村重の末子として生まれ・・・元和初年40歳の頃、福井に移住。・・・嫡男源兵衛勝重が又兵衛の工房を継承し、福井藩の絵師として活躍、その家業は嫡子陽雲以重が継承。陽雲は貞享3年浪人となり、後に越前松岡藩に茶道兼医師として召し抱えられる。
岩佐純: 通称・又玄。天保6年(1835年)~明治45年(1912年) 父親は福井藩医・岩佐玄珪允。 岩佐家は歴代武人であったが、父の允より藩医となった。・・・明治5年、明治天皇の大侍医となり、天皇に近侍すること30年余に及び、明治31年には宮中顧問官を兼ねる。明治40年男爵に列した。若狭医学会の会頭として・・・とあります。
②『福井県史 通史編3 近世1』の「第5章 宗教と文化-第5節 建築物と絵画-四 岩佐又兵衛と狩野派 又兵衛とその末裔」では、勝以(又兵衛)-源兵衛勝重-陽雲以重 まで判明。
③『福井市史 資料編 3』に、「以重、勝重の嫡子、その子皆陽雲と号す。福井藩医となれり、その子皆陽雲と号し、福異藩医となれり。貞雲(じょううん)に至って御従並に絵師となれり」という記述があります。
二人が福井出身(又兵衛は40歳頃に移住したわけですが)であること、又兵衛の子孫に医者がいたことと岩佐純が医者であったという共通点はありますが、それ以上のことは不明です。
『謎の近世画家』岩佐又兵衛の項p31に、又兵衛の遠孫と称する岩佐平造氏によって、岩佐家系が発表されたとあります(『浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか』p220に、熱海美術館(MOA美術館)が「岩佐家系」を持っていたという記述があります)が、その内容については分かりませんでした。
岩佐純の経歴についても、当館では上記①以外見当たりませんでした。web検索でも、岩佐純については、上記①資料の記載事項以外に、日本に初めてドイツ医学の採用を建議したことや、東京府立病院院長を務めたことくらいしか分かりませんでした。
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≪追記≫近畿大学中央図書館より、下記のとおり情報提供していただきました。岩佐純は又兵衛の家系を継ぐものではないと推測されます。
下記文献に次のような記述がありました。
昭和新修華族家系大成 上巻 / 霞会館諸家資料調査委員会編纂 霞会館 , 1982
p.198
岩佐 博 イワサ ヒロシ (男爵)
玄珪 ゲンケイ ― 純 ジュン 天保六、五生 明治四五、一没 ― (以下略)
p.199
「当家の祖今井権左衛門は備中出身で、江戸中期越前松岡藩に仕え岩佐を姓とした。のち福井藩士となり、玄珪より医師を家業とした。・・・」
- 事前調査事項
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質問者は、『国華』国華社(巻号は不明)に岩佐家譜が記載されていたが、岩佐純の名前はなかったとのこと。
- NDC
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- 日本 (281 9版)
- 参考資料
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- 『三百藩家臣人名事典 3』新人物往来社 1988.4
- 『福井県史 通史編 3 近世1』福井県 1994
- 『福井市史 資料編 3近世1』福井市 1986
- 『謎の近世画家』 瀬木慎一/著 ジャパン・パブリッシャーズ 1977.8
- 『浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか』砂川幸雄/著 草思社 1995.7
- キーワード
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- 岩佐又兵衛(本名:勝以)
- 岩佐純
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000047164