レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年01月13日
- 登録日時
- 2023/01/25 14:02
- 更新日時
- 2023/01/25 14:18
- 管理番号
- 横浜市中央2683
- 質問
-
解決
井土ケ谷事件について分かる資料を探している。
- 回答
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井土ケ谷事件とは、1863年10月10日(文久3年9月2日)に武州久良岐郡井土ケ谷村
(現在の横浜市南区井土ケ谷下町)で、フランス陸軍少尉アンリ・カミュ(Camus,J.J.Henri)が
浪士に殺害された事件です。
今回は横浜市の町名表記に準じて「井土ケ谷事件」としていますが、
「井土ヶ谷」と表記している資料はそのまま引用しています。
1 事件の概要が分かる資料
⑴『南区の歴史』 南区の歴史発刊実行委員会 1976
p.86~90「歴史編 開港後の南区 井土ケ谷事件」
事件の概要や当時の記録等が紹介されています。
こちらは「国立国会図書館デジタルコレクション」にて図書館送信参加館・個人送信限定で
公開されています。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9522619
⑵『横浜ふらんす物語』 富田仁/著 白水社 1991.11
p.91~100「第四章 外人墓地に眠るフランス人 1 井土ケ谷事件の犠牲者アンリ・カミュ」
カミュについて「フランス陸軍のアフリカ連隊付少尉であった。
従来、カミュは中尉と見られてきたが、最近の調査でヨコハマ外人墓地のカミュの墓碑に
Sous-lieutenant(少尉)と刻まれていることが判明した」とあります。
⑶『横浜居留地のフランス社会 研究叢書』 澤護/著 敬愛大学経済文化研究所 1998.10
p.271~299「井土ヶ谷事件と遣仏使節池田筑後守」
事件の概要のほかに、事件による外交的な影響や池田筑後守発長の外交使節についても
解説されています。
⑷『幕末異人殺傷録』 宮永孝/著 角川書店 1996.03
p.220~230「暴走する「攘夷」-頻発する殺傷事件 井戸ケ谷村でフランス士官を暗殺」
事件直後のカミュの遺体の写真が(アムステルダム海事博物館蔵)として掲載されています。
また、カミュの墓の碑文(フランス語原文とその日本語訳)も紹介されています。
⑸『横浜外国人墓地に眠る人々 開港から関東大震災まで』 斎藤多喜夫/著 有隣堂 2012.7
p.23~24「Ⅰ 外国人殺傷事件の犠牲となった人々 カミュ」
カミュの簡単な略歴も紹介されています。「16区85」という区域に墓地があると紹介されています。
⑹『横浜山手外人墓地 写真で綴る文化シリーズ』 生出恵哉/著 暁印書館 1984.12
p.12~13「攘夷の刃に倒れた人たち フランス皇帝に謝罪した井土ケ谷事件 H・カミュ」
⑺『横浜外人墓地 山手の丘に眠る人々 ガイドブック』 武内博/著 山桃舎 1985.11
p.143「山手の丘に眠る人々 カミュ」
2 事件が起こった場所が分かる資料
事件が起こった場所は現在の横浜市南区井土ケ谷下町3番地付近であり、
また、事件の現場と異なる場所に「井土ケ谷事件の跡」という碑があることも分かりました。
⑴『南区の歴史』 南区の歴史発刊実行委員会 1976
p.86~90「歴史編 開港後の南区 井土ケ谷事件」
1⑴と同資料です。p.87で場所は「井土ケ谷下町三番地道路上」とあり、
蒔田橋を渡って十二天社の周辺であると紹介されています。
また、p.482-483には覚え書きではありますが「明治初期の井土ヶ谷記憶図」が
掲載されており、蒔田橋や十二天前も確認することができます。
⑵『横浜の文化財 第1集 横浜市指定・登録文化財編』
横浜市教育委員会社会教育部文化財課/編 横浜市教育委員会社会教育部文化財課 1990.3
p.100「29 地域史跡 井土ヶ谷事件の跡」
「井土ヶ谷村字下之前(現南区井土ヶ谷下町三)で仏国士官カミュが
浪人体のもの三人に殺害された」と記載があります。
また、「井土ケ谷事件の跡」碑については「所在地 横浜市南区井土ヶ谷下町三二の一先」と
あります。
⑶『日本歴史地名大系 第14巻 神奈川県の地名』 平凡社 1984.2
p.126~127「井土ヶ谷村」
「フランス士官アンリ・カミュが三人の浪士に殺害された井土ヶ谷事件(下手人不明)の現場は、
現井土ヶ谷下町三番地道路付近」
⑷「ドキュメント・井土ヶ谷事件」重富昭夫著
(「かながわ風土記」1995年1月号 210号 丸井図書出版)p.77-82
p.77「事件が起きたのは文久三年(一八六三)九月二日、
ところは武州久良岐郡井土ヶ谷村字下乃前(現在の横浜市南区井土ヶ谷下町三番地辺り)」と
あります。
3 事件当時の記録や様子が分かる資料
⑴『横浜市史 資料編 5』 横浜市/編集 横浜市 1969.3
p.414~426 「仏国士官「カミユス」井戸ヶ谷村ニ於テ遭害一件 一」
p.427~439 「仏国士官「カミユス」井戸ヶ谷村ニ於テ遭害一件 二」
幕末の外交史料集である『続通信全覧』より横浜に関する資料を活字に翻刻しています。
⑵『続通信全覧 49 類輯之部 33 武器門・暴行門』 外務省/〔原〕編纂
雄松堂出版 1987.8
p.886~905、906~925
3⑴と同じ文書の復刻版です。
⑶『日本初期新聞全集 3 文久3年9月(1863年10月)-元治1年3月(1864年5月)』
北根豊/編 ぺりかん社 1986.12
事件当時の新聞として下記の記事が掲載されています。
ア 「日本貿易新聞」
p.2「イドカヤの殺害」 第23号(1863年10月14日)
p.10「ロイテナント、カームスの葬式」 第24号(1863年10月21日)
p.17「カアムス氏を殺害せし者を未た探索」 (1863年10月24日)
p.34「カミユス君の殺害にて、日本との交際必す大危難に至らんとす」
第27号(1863年11月11日)
p.61「カムス君を殺害せし者の追捕し難き困苦を告げ」 第31号(1863年12月9日)
イ 「The Japan Herald」
p.5「FUNERAL OF LIEUT. CAMUS,」1863年10月17日
⑷『幕末明治新聞全集 第1巻 文久より慶応まで』 明治文化研究会/編 大誠堂 1934.10
3⑶アの新聞記事は第31号を除き、この資料のp.73、77、79、93でも確認できます。
⑸「資料よもやまばなし フランス陸軍士官、カミュの葬儀」中武香奈美
(「開港のひろば 横浜開港資料館館報」第34号 横浜開港資料館 平成3年6月1日)p.6~7
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/backnumber.html
3⑵イの新聞記事を出典としている外交文書を訳出して紹介しています。
カミュに関する来歴の紹介に加え、「カミュの墓には「享年三〇歳」と刻まれている」とあります。
⑹『一外交官の見た明治維新 講談社学術文庫』 アーネスト・メイスン・サトウ/〔著〕
鈴木悠訳 講談社 2021.4
p.115~127「第八章 鹿児島の砲撃」
事件当時、日本に滞在していたイギリスの外交官アーネスト・サトウによる回想録です。
p.125-126で事件や当時の様子について述べられています。
(Webサイト最終確認日:2023年1月13日)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 関東地方 (213 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000327896