レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年1月20日
- 登録日時
- 2019/01/20 17:44
- 更新日時
- 2019/03/10 16:54
- 提供館
- 福井県文書館 (9000002)
- 管理番号
- 2018-012
- 質問
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解決
福井藩のお雇い外国人グリフィスは1月14日に福井城下に到着しており、例年この日に催された奇祭「馬威し」を見物していたのではないか?
- 回答
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福井城下で行われた正月行事「馬威し」は、正月の火祭り・左義長に関連した行事です。群衆の中を馬で巧みに進もうとする藩士たちと、鳴り物や旗などで馬を驚かして行く手を阻もうとする庶民たちの間でくり広がられるにぎやかで熱気に満ちたお祭りでした。
そして、ウィリアム E.グリフィス(William Elliot Griffis, 1843-28)が福井城下に到着したのは、1871年(明治4)1月14日(太陰暦)。確かに福井城下の「馬威し」は、幕末には1月14日に行われることが多かったのですが、1870年(明治3)から日程が短縮・変更され、この年は7日に行われたため、グリフィスは「馬威し」を見てはいませんでした。
- 回答プロセス
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(1)グリフィスが福井城下に到着した年月日を確認。
グリフィスの日記から福井城下に到着したのは、太陽暦の1871年3月4日であったことがわかります。これは、太陰暦の1月14日にあたります。
日記には、午前「11時半福井に着いた。町の人が呆然と見ていた」と記されていますが、祭りに関連した記述は見あたりません(山下英一『グリフィスと福井 増補改訂版』2013年)。
(2)「馬威し」は例年何日に催されたか?
旧福井藩士で初代福井市長の鈴木準道が記した「左義長馬威模様書」(『福井市史』資料編9、松平文庫蔵)では、例年1月14日に行われていたとされています。本番の「本威し」が14日に、これに先立って稽古や馬を慣らす目的で「下威し」が8日頃から12日にかけて行われていたといいます。
19世紀に入った頃には、1814年(文政11)、45年(弘化2)、54年(安政元)、56年(安政3)~61年(文久元)では、いずれも1月14日に「本威し」が行われていました(印牧信明「福井城下の正月行事『馬威し』について」福井市立郷土歴史博物館『研究紀要』11、2003年)。
ただ例外もあり、1844年(弘化元)では、藩主松平慶永の江戸発駕が13日に予定されていたため、10日に繰り上げられたこともありました。
(3)グリフィスが福井に居た1871年(明治4)の馬威しは、いつ行われたか?
福井市近郊、種池村の坪川家の日記をみると、1月5日に「福井馬驚、始る」(下威し)とあり、7日に「福井馬驚、今日ニテ相済」と記されている。つまり、グリフィスが福井にやってきた時には馬威しが終了していたということになります。
前年の1870年(明治3)1月7日の条には「左義長をはやす、例年之福井馬驚(うまおどし)、以前ハ十四日ニ候処、爾自今日限りニ相成候」とあり、前年から「馬威し」の日程がた短縮、変更されていたことがわかります。
廃藩置県によって藩が解体され騎馬を維持できなくなるにしたがって、馬威しは廃れていったと考えられます。現在確認できる最後の「馬威し」は、1885年(明治18)で、1月7日に「本威し」が行われていました(『福井新聞』1885年1月9日)。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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山下/英一 著 , 山下/英一. グリフィスと福井 増補改訂版. エクシ-ト.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I088128648-00 , ISBN 9784900858244 - 印牧信明「福井城下の正月行事『馬威し』について」福井市立郷土歴史博物館『研究紀要』11、2003年
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山下/英一 著 , 山下/英一. グリフィスと福井 増補改訂版. エクシ-ト.
- キーワード
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- ウィリアム E.グリフィス
- 左義長
- 馬威し
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 馬威し 正月行事 左義長 郷土 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000250440