昭和19年当時、住居の呼称は地番制度に基づくものでしたが[資料(1)-1]、地番の附し方は地方により異なっていたそうです[資料(2)]。当時の東京市には、地番整理方針というものが存在したようですが[資料(3)]、お尋ねの本郷区駒込西片町十番地については、特筆すべき事情があったようです[資料(4)および(1)-2]。
[資料]
(1)-1 「8 町名地番制度法令沿革」『住居表示制度関係資料』自治省 [出版年不明] pp.50-63. 【AZ-391-10】
(
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907157/32 )(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)
(1)-2 「9 町名地番の現状について」同上 pp.63-73. 【同上】
(
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907157/38 )(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)
一の地番に多数の枝番号がある事例として、東京都文京区駒込西片町10番地が挙げられ、「東京都文京区駒込西片町は1番から22番までしかなく、しかもその大部分は10番地であり、かつその10番地内に居住する世帯数は1,440世帯におよんでいる。(中略)このため同地区を適宜イからチまでの8地区に分け、その住居地表示は、「文京区駒込西片町10のイの何番地」としている。」との記載があります(p.68.)。
(2)清水弥兵衛『新地租法逐条解説』日本法律研究会 昭和6 pp.6-7. 【607-324】
(
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1443160/20 )(インターネット公開)
(3)『東京都市計画概要. 昭和14年3月』東京市企画局都市計画課 昭14 pp.146-148. 【732-110】
(
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463284/111 )(インターネット公開)
「地番整理方針」によれば、地番の呼称について、「地番ハ従前ノ通何町何丁目何番トシ符号ヲ有スルモノハ何番ノ一、二、三トス」との記載があります(p.148.)。
(4)重藤魯『理想都市の町と番地』帝国地方行政学会 昭和17【318.3-Sh29ウ】
(
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1045168/101 )(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)
「本郷区の駒込西片町十番地は、(中略)十番と謂ふ一箇の地番が附けられ、其後土地の開放に因って七百数世帯の住居者を容するに至った今日でも、地主の土地分筆はやはり十番の一、十番の二以下の範囲を出で得ず、(中略)居住民の不便苦悩は限りなきものがあり、土地利用上の切なる要求は遂に地主をして各街衢に応じて「いの三十八号」「はの二十三号」と謂ふ様な法的根拠のない、公簿以外の俗称を創設し、」との記載があります(pp.162-163.)。
(なお、序文(p.3.)によれば、(4)の著者は、東京市主事町名整理掛長または都市計画課長として、20年近く町名地番整理事務に従事していました。)