レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/3/9
- 登録日時
- 2017/08/17 00:30
- 更新日時
- 2017/08/17 00:30
- 管理番号
- D0226123532
- 質問
-
未解決
人形芝居について調べている。天保12年に天保の改革による厳しい倹約令が出されているが、この禁令が何年に解消されたのか知りたい。確認できる資料を教えてほしい。
- 回答
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倹約令といっても、ひとつの法令というわけではありません。
※ 調べ方案内「江戸幕府の法令集(個別の法令・法典)」「6. (参考)生類憐みの令」
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-644.php#6
上記のサイトや資料1、2にもあるように、天保の改革における禁令には様々な対象があります。
人形芝居について調べているということから、今回ご照会の件については、天保の改革において出された人形芝居に関する禁令がいつ解消したかの調査として回答します。
資料3~5の記述から、天保12(1841)年、人形芝居の座元に対し、江戸市中における芝居小屋再建の禁止と聖天町(猿若町)への移転、市中での興業を禁止されたことがわかります。
資料4に、弘化2(1845)年に禁止令は解除されたという記述がありますが、詳細は不明です。
資料3に、人形芝居の座(薩摩座、結城座)に関する記述があり、猿若町から薩摩座が神田旅籠町3丁目に移転したのが元治年代、結城座が両国米沢町に移転したのは慶応2(1866)年正月ということです。
資料6によると、寄席においても人形芝居が行なわれていたようです。
寄席における人形芝居は、天保の改革以前から禁じられていたものの守られていなかったのを、天保12年に寄席に出ていた女浄瑠璃を捕えることで厳しく取り締まる姿勢を見せたということです。
寄席に対してはまた、天保13(1842)年2月に大半を廃して市中は15ヵ所に限定し、神道講釈・心学・軍書講談・昔噺しの「四業」のみの上演を許すという弾圧が行なわれたということです(資料6、7)。
弘化元(1844)年12月24日、市中の15ヵ所に限らず「勝手次第」とする町触が出されて軒数の制限は解消していますが、演目については「四業」に限られています(資料8)。しかし、資料7によると、四業のみという制限は徐々に無視され、嘉永元(1848)年までには人形芝居の市中での上演もはじまっていたようです。
【 】内は当館請求記号です。
資料1
国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』吉川弘文館 1979-1997【GB8-60】
* 第5巻「倹約令」の項(pp.235-236)に、「農村に対しては、天保十二年五月、代官の名で倹約令が公布されたが、それは農民の衣食住・冠婚葬祭・ 年中行事から、休養や
娯楽を兼ねた催し物や遊芸に至るまで、(中略)きびしい制限をうけた。大都市に対しては、同年十月、享保・寛政の奢侈禁止令を集めた 町触が出され、(中略)禁制の対象となったものは、(中略)多種にのぼる玩弄品であった。」等の記述があります。
* 第9巻「天保の改革」の項(pp.1019-1022)に、「この改革は、(中略)綱紀粛正・倹約励行・風俗是正に力を入れ、とりわけ奢侈の取締りは厳格を極めた。(中略)日常の衣食住全般にわたり微に入り細を穿つもので、(中略)風俗の悪化・奢侈の元凶と目された歌舞伎に対して弾圧を加え、江戸三座のう ち堺町と葺屋町の芝居小屋を江戸の外れの浅草山之宿に移転させ、(中略)江戸市中から隔離した。さらに、(中略)寄席の取り潰しを図り、結局十四ヵ所のみ に制限し、(中略)町人のささやかな日常の娯楽すら奪った。」等の記述があります。
資料2
石井良助 服藤弘司 編『幕末御触書集成』岩波書店 1992-1997【AZ-145-E23】
* 第4巻に「倹約之部」(pp.391-425)があり、天保12年だけでも衣服、飲食、献上物等、様々なものに関する複数の禁令が出されていることがわかります。
資料3
戸伏太兵 著『文楽と淡路人形座』寧楽書房 1956【777.1-W98b】
* 「猿若町移転と江戸あやつり両座の終末」の項(pp.181-190)のうち、p.181に「天保十二年十月六日の火事に芝居町全焼したのを期に、水野越前守の天保大改革によって市中興業を禁じられるに至った。当時江戸における人形芝居は、露天興業や見世物形式のものは別として、歴乎とした定打小屋は葺屋 町の結城座と、堺町の薩摩座と、ただ二座になってしまっていた」という記述があります。
* p.186に、結城座の米沢町2丁目での再興は慶応2年正月からとあります。
*p.188に、元治年代に、薩摩座が猿若町から神田旅籠町3丁目に移転したこと、神田旅籠町3丁目の空地では、安政頃に若松座という人形芝居が行なわれたことが記載されています。
資料4
廣瀬久也 著『人形浄瑠璃の歴史』戎光祥出版 2002.10【KD475-G67】
* 「天保の改革で人形座退転」(pp.200-204)のうち、pp.200-201に「水野は天保十二年十月六日、江戸の芝居町が全焼したのを機に、人形芝居の市中興業を禁止して改革に着手している。その頃、人形浄瑠璃は葺屋町に結崎座、堺町に薩摩座があった。(中略)天保の改革により、江戸市中の人形座 は退転を余儀なくされた」とあります。
*p.201には、「弘化二年(一八四五)、水野忠邦が失脚すると、この愚かな禁止令は解かれ、人形芝居は再び活況を取り戻していく。」とあります。
資料5
伊原敏郎 著;編集校訂:河竹繁俊、吉田暎二『歌舞伎年表 第6巻 (文化13年-嘉永6年)』
岩波書店 1973【KD2-39】
*目次の天保十二年の個所に、「中村、市村両座焼失と再建不許可(四三七、八上)」、「水野越前守の「風聞書」(芝居場所替其外取締方)に対する遠山左衛門尉の答申(四三九上)」、「両芝居町引揚げ申渡(四四五上)」、「聖天町へ替地仰付らる(四四六上)」とあります。
本文を参照すると、「當十月六日夜(中略)両座並操両座焼失(中略)十月廿日、芝居操座並茶屋、其外堺丁葺屋町住居の者、一同普請見合せべく旨、樽三右 衛門より達有之候。」(p.438)、「十二月十九日、三座元、操座元、(中略)呼出の上、北奉行遠山左衛門尉より申渡し。此度市中風俗改候様との御主 意有之候處(中略)堺丁葺ヤ丁両狂言座並操芝居其外右に携り候町家之分不残引揚被仰付候」(p.446)、「十二月晦日、一同呼出しの上、聖天町へ替地 被仰付」(p.446)等の記述があり、歌舞伎だけでなく人形芝居の座元に対しても、風俗への悪影響を避けるため、市中での再建不可、聖天町への移転が命 じられていたことがわかります。
* 天保12年の芝居座移転に関する史料と解説は、次の資料にも掲載されています。
なお、掲載されている史料はそれぞれ異なるものです。
『史料大系日本の歴史 第6巻』大阪書籍 1980.3【GB71-99】 pp.29-31
歴史学研究会 編『日本史史料 3(近世)』岩波書店 2006.12【GB22-H102】
pp.400-401
資料6
藤田覚 [著]『遠山金四郎の時代』講談社 2015.8【GB354-L65】
*「第三章 寄席の撤廃をめぐって」(pp.60-93)に、寄席の撤廃に関する経緯や天保13年に江戸市中の寄席が15軒に減らされたことが記載されていますが、軒数制限の解消に関する記載は見当たりませんでした。 p.64に寄席で演じられる芸能についての紹介があり、人形を交えた人形浄瑠璃も含まれているとあります。 「浄瑠璃語りや人形浄瑠璃は操り芝居座のみに興業が許され、市中の寄席で催すことは以前から禁止されている」(p.71)とありますが、守られていなかったようで、天保12年11月28日に寄席に出ていた女浄瑠璃を捕え、厳しい取締りの姿勢を見せた(pp.80-81)ということです。
*「第四章 芝居所替をめぐって」(pp.94-121)に、経緯に関する記述がありますが、いつ解消されたかの記載はありませんでした。
「6 宮地芝居の撤廃」(pp.119-121)では、市中の寄席の取締りとあわせて、天保13年に寺社境内での芝居が禁止されたことが紹介されていますが、人形芝居に関する記述はありません。
資料7
網野善彦、大津透、鬼頭宏、桜井英治、山本幸司 編『日本の歴史 17』講談社
2009.11【GB71-J131】
*「寄席への大弾圧と復活」(pp.238-240)の項に、天保12年11月の女浄瑠璃摘発
事件を契機とする寄席に対する弾圧、天保改革が頓挫した翌年の 弘化元(1844)年の町触で演目は四業に限定するが寄席は勝手次第となったこと、「四業のみという制限も徐々に無視し、一八四八年(嘉永元)までには、音曲・浄瑠璃から歌舞伎・操人形までを「大形」に上演しはじめ」たこと等の記述があります。
資料8
近世史料研究会 編『江戸町触集成 第15巻』塙書房 2001.3【AZ-145-E28】
*弘化元年、一四二六二の触(pp.110-111)に、「市中寄場渡世之者共、度々之申渡を相背、女浄瑠璃等相催候もの有之ニ付、十五ケ所ニ限り其余は不残取払申付候処、(中略)以来右十五ケ所ニ不限、何方ニ而も勝手次第右渡世差免間、弥以先達而申渡置候通り、神道講釈心学軍書講談昔噺し四業ニ限り」等の 記載があります。
〔主な調査済み資料・ウェブサイト〕
・『岩波講座日本歴史 第13巻 (近世 4) 』岩波書店 2015.3【GB71-L154】
*神田由築「芸能と文化」(pp.287-321)の「三 序列化と多様化の時代」に「3 天保期の文化」の項があり、「天保改革で禁止されていた寺社境内での興業が安政四年に再開されるのを機に」(p.308)という記述があります。
・藤田覚 著『天保の改革』吉川弘文館 1996.9【GB349-G8】
*「第三 天保改革と江戸」(pp.32-103)のうち、「三 都市政策をめぐる対立」
(pp.66-85)に、老中水野忠邦と町奉行遠山景元、矢部定謙の、風俗、寄席、芝居等に関する取締りにおける対立と結末について取り上げられていますが、取締りの解消に関する記述は見当たりませんでした。
・守屋毅 著『近世芸能興行史の研究』弘文堂 1985.9【KD22-41】
*索引の「人形操り」、「人形の座」等、人形芝居に関する項を中心に確認しましたが、天保の改革の禁令に関する記載は見当たりませんでした。
・土肥鑑高「奢侈禁止と倹約令」(『日本歴史』(通号 526) 1992.3 pp.61-63
【Z8-255】)
・国立国会図書館サーチ http://iss.ndl.go.jp/
・CiNii Articles http://ci.nii.ac.jp/
・Japan Knowledge Lib ※当館契約データベース
・Google Books https://books.google.co.jp/
ウェブサイトの最終アクセス日は2017年3月3日です。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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国史大辞典(吉川弘文館)の倹約令の欄
新国史大年表(国書刊行会)の天保12年~明治10年の指標欄
人物叢書 水野忠邦
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- 参考資料
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- 照会先
- 寄与者
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- 調査種別
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- 質問者区分
- 登録番号
- 1000220499