レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年03月18日
- 登録日時
- 2015/08/25 14:58
- 更新日時
- 2015/08/25 14:58
- 管理番号
- 9000011318
- 質問
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解決
平安時代の貴族の化粧(白塗り、眉毛の描き方、お歯黒)について、なぜそのような化粧をしたか。
- 回答
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『化粧ものがたり:赤・白・黒の世界』(高橋雅夫著 雄山閣出版 1997年)によると、平安時代の貴族の化粧についての考察として次のようなことが書かれている。白塗りについては、平安時代の貴族文化の時代になると、陽の当たらない宮殿内の生活を象徴する白い肌が上流階級のイメージとなり、白が高貴を象徴する色となった。また、眉化粧は、髪形を含めた顔全体の配色美から生まれたもので、さらに時代や階級表示、流行現象とともに変化した。鉄漿(かね・お歯黒)については、近世にお歯黒が行われていた理由として、伝統的な日本の化粧美である赤・白・黒の美意識を満足させていたことなどを挙げている。詳細については参考資料をご確認ください。
- 回答プロセス
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1.『有識故実大辞典』(鈴木敬三編 吉川弘文館 1996年)[資料番号0103000758]→p260-261「化粧」の項によると、平安時代に入って遣唐使が停止されてから日本的な風俗が高まるにつれ、白粉を厚く塗ることが高貴の婦人間で行われ、末期には男の間にも薄化粧が流行った。
2.『平安時代史事典』本編上(角川書店 1994年)[資料番号0102778479]→p766「化粧」の項によると、平安時代は、白粉(おしろい)の濃化粧の時代といえよう。眉を抜いて白粉で塗りつぶした上に黛(まゆずみ)で引眉をし、頬と唇の紅が行われて、髪はそれまでの結髪から垂髪に変わった。白粉を塗って眉を作ることは、平安後期になると公家の男子にも行われるようになった。鉄漿(かね・おはぐろ)も、平安時代以来、成年に達した女性に行われ、これも平安後期以降、男子の間にも及んだ。
3.自館システムで件名「化粧」を検索し、該当資料を調査。
・『化粧ものがたり:赤・白・黒の世界』(高橋雅夫著 雄山閣出版 1997年)→「白の章:おしろいのものがたり」p60-62に「白い肌への憧れ」の章あり。平安時代の貴族文化の時代になると、陽の当たらない広大な宮殿内の生活で青白くなった肌に、さらに白粉をぬった白い肌が上流階級のイメージとなり、しだいに白は高貴を象徴する色となった旨の記述。「黒の章:眉化粧とお歯黒のものがたり」のp192-207の「眉化粧」の項によると、眉化粧の変化は、おそらく髪形を含めた顔全体の配色美から生まれたもので、さらに時代や身分、階層、既婚・未婚といった階級表示や流行現象とともに変化した。室町時代の「住吉絵巻物語」などにみられる異様に大きい眉化粧は、限られた上流階級に生まれた階級表示の化粧で、流行化粧にはならなかった。
、p207-216に「お歯黒」の項あり。p219には近世にお歯黒が行われていた理由として(1)伝統的な日本の化粧美である赤・白・黒の美意識を満足させていたこと。色の白い女性の場合、お歯黒はたいへん美しく見えた。(2)歯垢、歯槽膿漏、虫歯の予防効果があった。(3)女性の半元服のしるしとして葉を染めることが社会的規範の中に定着しいていたことが考えられるとしている。
・『化粧と着物の風俗史』(高嶺照夫著 つくばね舎 1999年)[資料番号0103759965]→p38-p46にお歯黒について書かれているが、理由についての記述はなし。
※『平安時代史事典』本編上(角川書店 1994年)p510の「鉄漿(かね)」の項には「鉄漿で歯を黒く染める化粧法」「後世「おはぐろ」と呼ばれた」と書かれている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 衣食住の習俗 (383 9版)
- 参考資料
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- 『化粧ものがたり』 (高橋 雅夫/著 雄山閣出版)(p60-62,192-207,207-216,219)
- キーワード
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- 平安時代
- 化粧
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000178955