レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20131105
- 登録日時
- 2014/07/25 00:30
- 更新日時
- 2014/07/25 00:30
- 管理番号
- 福参-918
- 質問
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解決
元寇の文永の役(1274年)において、日本の武士が元軍の大将を射落としたそうだが、それぞれの名前を知りたい。そのことが載っている原典もわかるとよい。
- 回答
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参考資料1『鎌倉武家事典』p.417
1274年10月20日、博多・箱崎方面での戦いにおいて、“敵の副司令劉復亨が、少貮景資の矢をうけて落馬したと伝えられている”との記述あり。
参考資料2『日本中世史事典』p.160
1274年10月20日、“筥崎では日本側の武将少弐(武藤)景資がかろうじて劉復亨を負傷させる”との記述あり。
参考資料3『誰でも読める日本中世史年表』p.134、典拠一覧p.58
1274年10月20日の文永の役の記事において、典拠書名を「八幡愚童訓」としている。典拠一覧によれば「八幡愚童訓」は『日本思想大系20』に収録されている。
参考資料4『日本思想大系 20(八幡愚童訓 甲)』p.185
“少弐入道ガ子三郎右衛門景資”が“蒙古ノ大将軍ト覚敷者長七尺計ノ大男”を射落とす記事があり、“葦毛ノ馬ニ金覆輪ノ鞍置タルガ走廻シヲ捕テ後ニ尋ヌレバ、蒙古一方ノ大将軍流将公之馬也ト、生捕共申ケリ”とある。
参考資料5『中國・朝鮮の史籍における日本史料集成 正史之部1』p.112
「新元史 巻143 劉復亨傳」に、“日本将三郎景資.射復亨墜馬.”とある。
参考資料6『中國・朝鮮の史籍における日本史料集成 三國高麗之部』p.280
「高麗史節要 巻19」に“而劉復亨中流矢.先登舟.故遂引兵還.會夜大風雨.”とある。
- 回答プロセス
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( )内は索引語、検索式、キーワード等①日本史の基本参考図書である『国史大辞典』(「文永・弘安の役」)と『日本史大事典』(「モンゴル襲来」)に記載がないことを確認。→記載なし。②元寇の時期である、中世・鎌倉期に特化した参考図書を調査。(「1274年 文永の役」)→『鎌倉武家事典』『日本中世史事典』にそれぞれの名前の記載あり。③②の中で、原典についての記載がないかも併せて調査。(「1274年 文永の役」)→『誰でも読める日本中世史年表』に、文永の役の記事典拠は「八幡愚童訓」とあり。巻末典拠一覧によれば、「八幡愚童訓」は『日本思想大系20』に収録。④中国や朝鮮の歴史書に記述がないか調査。(「元史」「高麗史」で所蔵タイトル検索。「1274年」近辺の項目を調査)→読み下し文で記述された『高麗史日本伝 上』には記載なし。漢文で記述された『中國・朝鮮の史籍における日本史料集成 正史之部1』(新元史)『中國・朝鮮の史籍における日本史料集成 三國高麗之部』(高麗史節要)に記載あり。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 8版)
- 参考資料
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- 1 鎌倉武家事典 出雲 隆/編 青蛙房 1978 210/42R/11
- 2 日本中世史事典 阿部 猛/編集 朝倉書店 2008.11 210/4R/373
- 3 誰でも読める日本中世史年表 吉川弘文館編集部/編 吉川弘文館 2007.10 210/4R/352
- 4 日本思想大系 20 岩波書店 1975 121/08/1-20
- 5 中國・朝鮮の史籍における日本史料集成 正史之部1 日本史料集成編纂会/編 国書刊行会 1975.12 210/088/43
- 6 中國・朝鮮の史籍における日本史料集成 三國高麗之部 日本史料集成編纂会/編 国書刊行会 1978.9 210/088/43B
- 7 国史大辞典 12 国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1991.6 210/03R/70-12
- 8 日本史大事典 6 平凡社 1994.2 210/03R/120-6
- 9 高麗史日本伝 上 武田 幸男/編訳 岩波書店 2005.5 221/04/7
- キーワード
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- 元寇 蒙古襲来 モンゴル襲来 高麗 朝鮮 少弐景資 劉復亨
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000156763