レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/05/22
- 登録日時
- 2013/08/26 00:30
- 更新日時
- 2013/08/27 13:22
- 管理番号
- 0000000058
- 質問
-
解決
加賀藩の藩主または重臣が、死去してから墓に葬られるまでの儀式について、研究した資料が見たい。また、儀式の絵図はないか。
- 回答
-
「研究した資料」は見つけられなかった。加賀藩主および家族の葬儀については、『加賀藩史料』にある程度記述がある。
絵図については、金沢市立玉川図書館近世史料館が、『泰雲院様御葬式惣絵図』(絵図1枚)、『泰雲院様御葬式絵図』(絵図3枚)、『於天徳院観樹院様御葬式絵図』(絵図1枚)、『香隆院様御葬式之節絵図』(絵図1枚)、『太梁院様御葬式絵図』(絵図1枚)を所蔵している(内容未確認)。
- 回答プロセス
-
郷土資料を「葬」「薨」のキーワードで検索した。森田文庫に『泰雲公御葬礼御行列付』『太梁公御葬礼御行列付』という資料があるが、確認すると文字資料で絵はなかった。
『加越能文庫解説目録 上巻』p125-129に藩主とその家族の葬儀に関する史料の書誌が載っている。「研究した資料」ではないが、その中に以下の絵図があった。
『泰雲院様御葬式惣絵図』(絵図1枚)、『泰雲院様御葬式絵図』(絵図3枚)、『於天徳院観樹院様御葬式絵図』(絵図1枚)、『香隆院様御葬式之節絵図』(絵図1枚)、『太梁院様御葬式絵図』(絵図1枚)
泰雲院は10代藩主重教(天明6年(1786)6月12日歿)。観樹院は10代藩主重教の子斉敬(寛政7年(1795)6月27日歿)。香隆院は11代藩主治脩の3男裕次郎(利命。文化2年(1805)5月21日歿)。太梁院は11代藩主治脩(文化7年(1810)1月7日歿)。
『前田利家の謎』p177に、利家の葬儀について、以下の記述がある。
「[1599年(慶長4)年閏3月3日の]利家没後翌日の閏3月4日、かねての遺言に従って遺体は、長持に納めて大坂を発し金沢に送られました。(略)[同年4月]6日遺体は金沢に到着し、8日に金沢の宝円寺で葬儀が行なわれました。導師は二代住職象山徐芸、太刀は村井長明が持ち、御位牌は篠原一孝、香は竹田宮内、天蓋は神谷守孝で、利長の名代は前田長種、利政の名代は脇田善左衛門がつとめました。利家の墓は、金沢城南方の野田山に築かれ、ここに埋葬されました。棺の中には甲冑・兵器等が納められたといいます。」
この記事は、『加賀藩史料 第1編』p705-710「[慶長4年]4月6日。前田利家の遺骸金沢に着す。」~「4月8日。前田利家の葬礼を宝円寺に行い、尋いで城南野田山に葬る。」の記事に似る。
東大史料編纂所の「近世編年データベース」で、「前田 葬」をキーワードに検索した。
「前田綱紀」「前田吉徳」等の葬儀を行なった日がわかった。
この中で、「前田斉敬」のケースを『加賀藩史料 第10編』で見ると、「[寛政7年]7月8日。前田斉敬卒せしを以って普請・鳴物以下遠慮の日数を定む。」(p627-628)、「7月22日。前田斉敬の霊柩着後、天徳院に於ける諸士の服装を定む。」(p631)等葬儀にまつわる風習について記述があった。
『稿本金沢市史 風俗編 第1』p231-229「葬祭」に武家と町家の葬儀について記述がある。p224-225の挿絵は巌如春の筆によるもの(『風俗画伯巌如春』p89)。
国立国会図書館所蔵の『徳川将軍葬儀図』は、インターネットで見ることができる。
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542605)
- 事前調査事項
- NDC
-
- 伝記 (28 9版)
- 参考資料
-
- 1 東京大学史料編纂所(近世編年データベース) 確認日:2013-05-22
-
2 加越能文庫解説目録 上巻 金沢市立図書館∥編 金沢市立図書館 1975.3 K025/15/1 p125-129 藩主とその家族の葬儀に関する史料の書誌
- キーワード
-
- 加賀藩
- 葬儀
- 藩主
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000136312