レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年06月21日
- 登録日時
- 2012/05/11 14:45
- 更新日時
- 2012/12/26 11:07
- 管理番号
- 新県図-01200
- 質問
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解決
「越後国 白勢検校」のプロフィールがわかる資料はないか。1800年ごろに岡山県笠岡市の神社に和歌を奉納した。歌人か学者と思われる。
- 回答
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白勢検校については『歴史の陽だまり散歩』(寺町・清水谷地区まちづくり協議会/編・発行 2004 請求記号:281.4/Te51)p27に略歴が載っています。
(不詳~1833)(社寺僧侶指導者)
白勢検校は旧金塚村の大地主白勢家5代長兵衛の息。名は正徳、盲目のために同族の白勢和合一の弟子となり、文化9年(1812年)検校に任官。藩内盲人仲間の間では力のある存在だったという。検校とは幕府公認の機関である男子盲人組織当道座の最高官位、長堀検校・伊瀬屋検校と共に新発田が生んだ三検校の一人であった。遺品の僧衣・帽子など5点は市の有形文化財である。
生家の白勢家は新発田地方の大地主で、この家の記録の『白勢家の地主構成』(新潟県農地部/編・発行 1964 N611/N72)p20にも略歴が出ています。
正徳。五代長兵衛の男。協和一とも呼ばれ、荒町に住み晩年紺屋町に移る。検校に列せられ、十老役となり新発田藩に重んぜられる。泊瀬検校という。天保四巳年七月二十三日歿。見敬院釈浄信。(新潟白勢家先祖)
また、『新発田市の文化財』(新発田市文化財調査審議会/編 新発田市教育委員会 1980 N709/20)p21にも略歴があります。
『新発田市史』上巻(新発田市史編纂委員会/編 新発田市 1980 214.1/Sh18/1)p641に「文政七年(一八二四)一月四日、直諒は御家中は言うまでもなく町在の者まで「学芸・芸能優れたもの承り」その名を認めて差し出すべきことを命じた」とあります。また、その結果の『芸能者書上』が載っており、当時の一流人の名が記されています。そこに「和歌 白勢屋豊次郎 白勢瀬兵衛検校」とあり、和歌に通じていたことがわかります。しかし、歌集等の存在は知られていません。なお、文中「直諒」とあるのは「新発田藩10代藩主溝口直諒」のことです。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 白勢検校
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000105725