レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2012/03/24 15:55
- 更新日時
- 2012/03/27 16:22
- 管理番号
- 広県図20120003
- 質問
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解決
明治前期,東京師範学校へ入学した学生が上京に使った交通手段が知りたい。
- 回答
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お尋ねのケースについての具体的な資料はありませんが,同時期に上京した人物の伝記によると,一般的に海路を取ることが多かったようです。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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『巨人新人』中国新聞社 1928
p259 当時交通機関は極めて不便の時代で,中国地方から汽車は素より汽船の便さへありません,宇品(と云ふより江波沖)から和船で大阪へ,(略)愈々憧れの東京-江戸から東京になってまだ間のない新東京へと行くことになりました。交通は依然不便であります,それでも神戸から横浜への汽船はありました。
[遊学の許しを得たのは明治6年] -
『秋山雅之介』秋山雅之介傅記編纂会 1941
p27 人力車で川下の大手町九丁目までゆき,そこから櫓船で宇品へ下り,宇品から蒸気船で東上する予定である。
[明治16年] -
『早速整爾傳』湊邦三/編纂 [板倉昭子] 2006(復刻)
p27 広島の本川から船で宇品港へ,宇品港から大阪行の汽船へ乗って,憧憬の都東京へ旅立ったが,この時齢僅かに十六歳であった。
[明治16年]
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『川崎卓吉』川崎卓吉伝記編纂会/編集 石崎書店 1961
p61 その頃はまだ交通機関が完備していなかった。鉄道は既に設けられていたが,それも断続的にすぎず,東京大阪間に汽車はまだ通っていなかったので,広島から東京へ行くことは容易でなかった。陸より海のほうがまだよかった。そこで卓吉は海路をとることになった。広島から船で神戸に出て,さらに横浜まで船で来た。そして横浜から汽車に乗って新橋駅に着いた。
[明治22年] -
『富士川游』富士川英郎/著 小澤書店 1990
p13 明治二十三年四月,東京で第三回内国勧業大博覧会が開かれたとき,富士川雪はその見物かたがた,二,三の友人を誘って広島からはるばる上京した。広島の宇品から瀬戸内海を船で東航して,神戸で上陸し,神戸からはじめて汽車に乗って,東京に至ったのであるが,東海道線の新橋・神戸間が全通したのは,明治二十二年七月のことで,雪がこの汽車に乗ったのはその九ヵ月後のことであった。
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『巨人新人』中国新聞社 1928
- キーワード
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- 海運
- 鉄道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000104187