レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年09月22日
- 登録日時
- 2017/12/21 17:09
- 更新日時
- 2017/12/21 17:46
- 管理番号
- 横浜市中央2502
- 質問
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解決
横浜市港北区綱島東の諏訪神社について、次のことが書いてある資料はありますか。
1 沿革について
2 祭神について
- 回答
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次のような資料があります。
1 沿革について
由緒については、綱島三郎信照という人物が勧請したという説(年代不詳)と、永禄年間(1558~1570年)の頃、武田家の家臣が信濃国諏訪明神を勧請し社殿を建立したという説があるようです。
(1)『新編武蔵風土記稿 〔第4期〕 第3巻』蘆田伊人/校訂 根本誠二/補訂 雄山閣出版 1996.6
江戸時代後期に編纂された地誌書。p.223 橘樹郡神奈川領南綱島村の項に「諏訪社」の項目があり、「勧請の年代詳ならず」と記述があります。
(2)『横浜市史稿 神社編・教會編』横浜市役所/編纂 臨川書店 1986.3(横浜市昭和7年刊の複製)
p.322に諏訪神社の項目があり、沿革については次の記述があります。
「口碑に拠れば、綱島三郎と言ふ者が、信州諏訪の上社を勧請した所であると云はれるが、其年代が詳かでない。古来より南北綱島村の鎮守であって、同郡駒林村の金蔵寺で進退して居た。天明年中の村明細帳には、除地二畝歩とある。又、当社に蔵した棟札等を見ると、元禄12年の頃に再建が営まれた。」
「明治六年、村社に列せられ、大正12年9月1日の関東大震災に拝殿を倒壊し、昭和元年に再建した。」
(3)『横浜の伝説と口碑 神奈川区・鶴見区・程ケ谷区 横浜叢書』 横浜郷土史研究会 1930.11
p.87「綱島の諏訪神社と桜木」に、次の旨の記述があります。
綱島三郎信照が、自分の故郷である信州諏訪明神の桜の一枝を折り取って馬の鞭とした。綱島の山上に来て信濃の方を偲び、「我が武運長久を守らせ給へ、若し其の験あらばこの枝桜に根をつかせ給へ」と念じて地に挿したところ、挿木に根が生じ、年月を経て枝葉が茂った。そこで山上に諏訪神社を請けて宮を建立し、この桜を珍重した。
(4)『神奈川県神社誌』 神奈川県神社庁/編 神奈川県神社庁 1981.9
p.54に諏訪神社の項目があり、由緒沿革として次の記述があります。
「綱島は往古綱島三郎の采邑で、永禄のころ武田の家臣が信濃国諏訪神社を勧請し社殿を建立した。」
(5)『港北区神社誌』 港北区氏子総代会/編 港北区氏子総代会 1987.7
p.24に諏訪神社の項目があり、(4)と同じ記述があります。
(6)『綱島東 創立二十周年記念誌』 横浜市立綱島東小学校創立二十周年記念誌委員会/編 横浜市立綱島東小学校創立二十周年記念事業 1991.10
p.101 学校周辺の史跡めぐりのページに「諏訪神社周辺」の項目があります。
「約四百年前、綱島三郎信照が信濃の諏訪神社の神様を迎えて『建御名方命』として祭り、明治六年、南北綱島村の鎮守様になりました。」
「豪華な社殿がつくられましたが、大正十二年九月の関東大震災によってこわれました。また、昭和三十六年七月十日に全焼し、四十八年に今の社殿が完成しました。」
2 祭神について
以下の資料をはじめ複数の資料に記述があり、いずれも「建御名方命(たけみなかたのみこと)」であるとされています。
(1)『横浜市史稿 神社編・教会編』横浜市役所/編纂 臨川書店 1986.3(横浜市昭和7年刊の複製)
p.322
(2)『港北区神社誌』港北区氏子総代会/編 港北区氏子総代会 1987.7
p.24
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 神社.神職 (175 8版)
- 日本 (291 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000227092