レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年04月19日
- 登録日時
- 2016/04/19 15:41
- 更新日時
- 2017/02/03 12:56
- 管理番号
- 秋田-1902
- 質問
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解決
大仙市太田町にあった「真木鉱山」および「川口鉱山」について、その歴史等を知りたい。
- 回答
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・真木鉱山
『鉱山と鉱山集落 秋田県の鉱山の栄枯盛衰』斎藤実則/著 PP.274-275より
明治12年、近藤政勝発見。金堀沢、鉛鋪の黒鉛を銀鉱として採掘
同21年、金子弥平により中ノ沢も開発
同23年、現地で製錬するも成功せず、休山
同41年、藤田組により再開、鉱石のまま小坂鉱山に送る
という旨の記載あり。
『太田町史 地誌・年表編』太田町史編さん委員会/編 P.86より
真木では、明治年代に鉱山が稼働し大量の銅鉱石が発掘、これの精錬のため大量の樹木が伐採され木炭が焼かれたとの記載あり。
・川口鉱山
宝永3(1706)年、佐竹藩探鉱の際に発見、同5年、採掘
享保10(1725)年、佐竹藩の直山として採掘
文化年間(1804-17)大山慶八が数年間採鉱、天保年間(1830-43)近藤行衛・政勝親子が採鉱
明治元(1868)年、吉助(地元の人間)稼行時、大当たり。同6年、官営となる
同8年頃、阿仁銅山小野組借区となり諸役人、人夫で採鉱。ひと月に荒銅500貫目(1.9t)生産の記録あり(当時としては小規模経営)
同26年、千葉寛五郎が採掘、谷地小屋で製錬。28年、金沢町(現在の横手市)福田周蔵が経営
大正4年、周蔵から譲渡された東京の飯田延太郎が経営。銅の品質も良く、県内重要鉱山に期待されるも、第一次大戦後の財界不況により休山
その後、数社が試掘するも、銅脈が細く、安定した採鉱ができない。
昭和12年、鎌田斯郎(雄勝郡院内生まれ秋田市)が経営。現在の鉱脈を発見後、採掘。17年には銅精鉱220t産出。同18~20年、自動車道路建設も、戦争と雪崩により壊滅。
戦後、昭和25年から再開。当時従業員72人、銅452.5t産出。銅市況が高騰し、活況となる。
同30年、経営者の病死、選鉱場の焼失などにより閉山。
同34年、日鉄鉱業により地質調査、ボーリング調査、電気探鉱等を実施するも生産段階に至らず休止のままである。
とのこと。
川口鉱山についての参考資料は、
『太田町百年誌』太田町史編纂委員会/編 P.250
『鉱山と鉱山集落 秋田県の鉱山の栄枯盛衰』斎藤実則/著 PP.276-277
『あきた鉱山盛衰記』斎藤実則/著 PP.170-173
『太田町史 地誌・年表編』太田町史編さん委員会/編 PP.36-37
『川口鉱山誌』太田町教育委員会/編
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 金属工学.鉱山工学 (560 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 真木鉱山
- 川口鉱山
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 受付方法:メール、4/5
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000191283