外務省記録「日本万国博覧会(一九七〇年於大阪) 博覧会開催地問題」に関係文書が収録されています。
日本政府は1964年(昭和39年)から、パリの博覧会国際事務局に1970年の万博開催を打診していました。その開催地については、いち早く関西方面から強い要望が寄せられたため、近畿地方での開催方針が立てられました。具体的な会場としては、大阪の千里丘陵のほか、神戸市や琵琶湖の埋立地などからも立候補があったため、政府内には会場を近畿地方の複数箇所に分散させる案もありましたが、同事務局がこの案に否定的であったため、結果として会場は大阪に一本化されました。
また、外国との兼ね合いでは、オーストラリアのメルボルンも1970年頃の万博開催を非公式に表明していました。しかし、オーストラリア政府が同市での万博開催に必ずしも積極的ではなかったことや、博覧会国際事務局内では日本での開催に対する支持が強かったことから、メルボルンが同事務局に対する正式申請を行わなかったため、1965年(昭和40年)9月14日、大阪での開催が決定しました。
なお、1970年の「日本万国博覧会」に関する記録は、博覧会国際事務局の政府代表者による運営委員会、理事会、広報に関する準備資料や、万博を訪れた参加国・機関の要人写真アルバムなど、約200冊のファイルが2004年(平成16年)に公開されました。それに加えて、2011年(平成23年)以降、同万博に関する外務省記録ファイルが順次外交史料館で公開されています。