外務省記録「西京ニ於テ浪人三枝蓊外一名英吉利国公使ヲ参朝ノ途中襲撃一件」や外交公文「英仏蘭三公使 戊辰京都参朝記聞」に、一連の関係記録がまとめられています。このうち事件の主要な経緯を示す文書が、『日本外交文書』第1巻第1冊に採録されています。
徳川幕府の大政奉還から2カ月後の1868年2月(慶応4年1月)、新政府(明治政府)は、「宇内之公法」(国際法)に基づく外交を執り行うことを宣言し、翌月に英・仏・蘭各国公使が天皇に謁見することを布告しました。駐日英国公使パークスは、その謁見のため京都御所に赴く途中で襲撃を受けました。記録によれば、事件の概要は以下のようなものでした。
1868年3月23日(慶応4年2月30日:旧暦)、パークスの隊列は宿泊所の知恩院から出発し、御所に向かいました。しかし、一行の先頭が弁財天町の街角を曲がろうとしたところで、突如2名の刺客が左右の民家から躍り出て、護衛の英国公使館付騎兵を襲いました。応戦した護衛兵10名ほどが負傷したものの、これによるパークス自身への危害は無く、刺客1名はパークスの傍らで護衛にあたっていた後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)らによってその場で斬り伏せられ、もう1名は捕縛されましたが、負傷者の手当のため、一行は参内を中止して知恩院へ引き上げました。
なおその後、外国事務局輔の伊達宗城(だて・むねなり)をはじめとする新政府関係者がパークス公使のもとに駆けつけた際、平素激烈な性格の同公使が、この時はさほど怒りを表さず、従容として慰問に感謝し、日本側護衛官の奮闘を讃えたとも記録されています。
新政府は事件の翌日、パークス宛の書翰を発出し、外国交際を重んじ親睦を厚くするとの政府の基本方針を再度伝達するとともに、このような事件は「汗背心外」であるとして謝罪し、襲撃関係者の厳罰と賠償金の支払いを約束しました。さらに、別の書面で改めてパークスに参内を要請し、これに応じたパークスは、襲撃事件から3日後に天皇への謁見を果たしました。