レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年06月03日
- 登録日時
- 2011/11/30 17:36
- 更新日時
- 2012/03/12 23:34
- 管理番号
- 埼浦-2011-053
- 質問
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解決
1 『浦和市史研究 9』に、寛保三年(1743年)京極佐渡守の御手伝御普請により芝川の工事が行われたとあるが、それについての資料はあるか。
2 『浦和市史研究 9』では享保十二年(1727年)開削当時の芝川の川幅を『見沼代用水沿革史』と同じ拾間としている。『見沼代用水沿革史』のほかに川幅十間としている資料はあるか。
- 回答
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1について下記の資料を紹介した。
『新編埼玉県史 資料編13 治水4』
p935-936「寛保二年十月 御普請手伝大名箇所附」に京極佐渡守の名前あり。
p937「自寛保二年十月至同三年九月 臼杵藩荒川筋御普請手伝記録」に京極佐渡守の名前あり。
p1062-1063「関東河川手伝普請」の表あり。表中に京極佐渡守の名前あり。
『中川水系 3 人文』
p295に「江戸中期の関東河川手伝普請」の表あり。表中に京極佐渡守の名前あり。上記『新編埼玉県史 資料編13 治水4』より転載したもの。
p296に「寛保2年関東川々普請手伝」の表あり。表中に京極佐渡守の名前あり。上記『新編埼玉県史 資料編13 治水4』より作成したもの。
『徳川実紀 9』
p50「(日記)○六日松平大炊頭継政、藤堂和泉守高豊、伊東熊太郎祐之、稲葉万次郎泰通、仙石越前守政辰、間部若狭守詮久をめされ、関東水害の地、河渠堤防の修築に人夫だすべしと命ぜらる。松平大膳大夫宗廣、細川越中守宗孝、阿部伊勢守正福、京極佐渡守高矩は在封なれば奉書もて命ぜられ(略)」とあり。
2について下記の資料を紹介した。
川幅を十間としているもの
『浦和市立郷土博物館研究調査報告書 13』
p49-50「代用水路開削とともに溜井の貯水と干拓後の悪水を排水するために古芝川では河道を掘りかえたり切り広げたりして川幅を一〇~一二間(一八~二二m)とし八丁堤を切り開いて荒川本流に放水する工事も行われました。」とあり。
『見沼代用水路の開疏と経営』
p31「工事の順序は次のごとくであったという。(略)まず芝川の舊荒川吐口よりはじまり、次第に遡って上青木西方寺下にいたる古芝川河道二千二百間を瀬替又は切り擴げ、川幅十間乃至十二間に改修した。(略)西方寺下より見沼溜井まで延長二千六百間水路幅十間の中悪水路を新たに開鑿し、(以下略)」とあり。
川幅を十間としていないもの
『川口史林 川口市郷土史会々誌 74』
p2-3「(前略)同(享保)十二年十月用水路開削工事が村請をもって始められたものである。元芝川の川口吐口から西方寺下(現青木四丁目)までを幅四間(7.2m)に河道はそのままに拡幅し、また同書より上流の元芝川は河道を新しく掘削し、これも幅四間、翌年には五間(9m)に掘り広げた。」とあり。
『川口市史 通史編 上』
p501「工事は荒川の川口からしだいに遡り、下青木の西方寺下まで川幅を四間(約7.2㍍)に切り広げ、西方寺下からは中悪水を開削し、八丁堤を切り開いて溜井の水を流した。翌年にまた一間拡幅し、都合五間の川幅になった。」とあり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 参考資料
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- 『新編埼玉県史 資料編 13 治水4』(埼玉県 1983)
- 『中川水系 3 人文』(埼玉県 1993)
- 『徳川実紀 9』(吉川弘文館 1976)
- 『浦和市立郷土博物館研究調査報告書 第13集』(浦和市立郷土博物館 1986)
- 『見沼代用水路の開疏と経営』(見沼代用水路土地改良区 1955)
- 『川口史林 川口市郷土史会々誌 74』(川口市郷土史会 2009)
- 『川口市史 通史編 上』(川口市 1988)
- キーワード
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- 芝川
- 京極佐渡守
- 御手伝御普請
- 治水
- 河川改修
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000097303