レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年07月14日
- 登録日時
- 2011/09/21 15:08
- 更新日時
- 2011/12/13 18:11
- 管理番号
- 埼熊-2011-091
- 質問
-
未解決
①群馬県に中世頃「セタノシロ」(勢多の城か)という城があったらしい。正式な城名と、現在の地名を知りたい。
②「セタノシロ」は後に小田原城攻め豊臣軍によって攻められたらしいが、誰によって攻められたか。
- 回答
-
①朝見伊賀守の出自の城「セタノシロ」(勢多の城)について、その名称も含めた具体的な記述は確認できなかった。
関連する記述のある以下の資料を紹介した。
朝見氏と勢多から調査する。
『埼玉叢書 2 新訂増補』(稲村坦元編 柴田常恵編 国書刊行会 1970)
p351「鉢形北条分限録」に「一、同 上州勢田 千五百貫 侍大将 淺見伊賀」とあり。(「同」とは「本国」を指す)
《自館目録》を〈北条 & 分限〉で検索する。
『鉢形城どんな城だったのか 鉢形北條家臣分限録考』(大谷清一著 大谷清一 2007)
p151「「本国」は当人の生まれた国と郡名、次は禄高、次は役職、次は落城後の住所」とあり。
浅見伊賀については記述見つからず。
『日本城郭大系 5 埼玉・東京』(平井聖〔ほか〕編修 新人物往来社 1979)
p131〈根古屋城〉の項に、「北条氏邦の家臣朝見伊賀守が元亀三年(1572)まで根古屋城主であったが、その後、勢多の城に移ったため副将の渡辺監物が城主になったという説(『新編武蔵国風土記稿』)(後略)」との記述あり。
『埼玉苗字辞典 1 ア-オ』(茂木和平著 茂木和平 2004)
〈アザミ・アサミ〉の項に、以下の記述あり。
p192 浅海 秩父志に「土佐国造末流 八形城臣浅見伊賀守・大野弾正忠の如者」
p194 鉢形城士の浅見氏 鉢形分限帳に「本国上州勢田・浅見伊賀」。神流川合戦記に「天正十年六月、鉢形城方・戦奉行浅見伊賀守春長」。町田日記に「天正十八年、鉢形留守居浅見伊賀守あり」。風土記稿秩父郡横瀬村条に「根古屋城跡、浅見伊賀守在城せし遺跡なりと云」。鉢形古城記に「根古屋の城に浅見伊賀守・同左馬助父子也」。
p211 風土記稿下日野沢村条に「旧家者里正十左衛門・阿左美氏なり。先祖は鉢形北条氏邦に属し阿左美伊勢守玄光と云」
p212 上野国の新田氏流阿左美氏 新田郡阿左美村より起る。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「本国上野、阿左美、浅見共」と見ゆ。当郡は勢田郡とも称す。
北条氏邦と勢多から調査する。
『群馬県古城塁址の研究 上』(山崎一著 群馬県文化事業振興会 1971)
p172-206〈勢多郡の古城址〉あり。
p172「長井坂城」の項に、「北条勢はここを拠点として沼田攻撃の作戦をくり返し、天正十七年、豊臣秀吉の仲介によって沼田を手に入れ範直も沼田に移ったのである」とあり。地名は「勢多郡赤城村永井」。
『群馬県の歴史 県史 10』(西垣晴次〔ほか〕編 山川出版社 1997)
p141「天正十年になると(中略)真田昌幸は小田原北条氏に接触している。八崎城(勢多郡北橘村)の長尾氏を仲介にして、北条氏邦と交信しているのである。(「正村正観氏所蔵文書」)」とあり。
群馬県の城に関する資料を調査する。
『関東百城 改訂増補』(大多和晃紀著 有峰書店 1977)
p359-395〈群馬県の城址〉「セタノシロ」に関する記述なし。
『上野志料集成 1』(樋口千代松 今村勝一共編 臨川書店 1973)
p185-220「上州故城塁記」収録。勢多にあった城塁を中心として確認したが、北条氏邦の所領とされる城に関する記述なし。
『群馬の地名 下』(尾崎喜左雄著 上毛新聞社 1976)
p254「阿左美(あざみ)」の章あり。「セタノシロ」の家臣について記述なし。
『上州の城』(上毛新聞社 1975)
巻末「上州故城塁址総覧」に勢多郡もあり。
『群馬県史料集 別巻 1 古城誌篇』(群馬県文化事業振興会 1970)
勢多郡の城については記述もあるが、該当するものなし。
②①が確認できなかったため、城を攻めた人物についての記述は確認できなかった。関連する記述のある以下の資料を紹介した。
『日本城郭大系 4 茨城・栃木・群馬』(平井聖〔ほか〕編修 新人物往来社 1979)
p316「概説」中に「天正18年3月8日、前田利家の率いる上杉・真田・芦田らの北国勢は碓氷峠を越えて上野に入り、(中略)4月21日、大道寺正繁を降し、石倉・厩橋・箕輪・白井などを抜いた。」とあり。
勢多郡の城の解説を見ると、「膳城(ぜんじょう)140 勢多郡粕川村膳 [2004.12.05から前橋市粕川町膳] 出典:上州故城塁記、上野志、上野国志、関八州古戦録 天正18年、小田原の役に北国勢の嚮導となり、」とあり。
- 回答プロセス
-
北条氏邦関連の資料を調査する。
『実説鉢形城主北条氏邦の生涯』(江口貢著 寄居町郷土文化会 1985)
p89-90(元亀3年3月5日)「北條氏邦、朝見伊賀守に横瀬の地を宛行う」として文書の掲載あり。
p277(天正18年3月2日)「根古屋の城には渡辺監物・浅見伊賀守・同左馬介父子是を守れり。(後略)-関東古戦録」
p303(天正18年6月14日)「前田・上杉軍が鉢形城城将井上三河守光英をおとす。(中略)根古屋の城には渡辺監物・浅見伊賀守・同左馬介父子是を守れり。(後略)-関東古戦録」
『論集戦国大名と国衆 3 北条氏邦と猪俣邦憲』(岩田書院 2010)
p108「(天正18年)三月下旬、(中略)前田利家・上杉景勝の軍は松井田・箕輪・厩橋(前橋)・倉賀野の緒城を攻略して武蔵国へ入った」とあり。(「箕輪」は現高崎市の箕輪城。「厩橋」は前橋城)
『埼玉叢書 1』(稲村坦元編 柴田常恵編 国書刊行会 1970)
「秩父志」p119に「花隈城主藤田五郎左衛門藤原安邦墓所同寺」の中に「根古屋城老臣 浅見伊賀守持」とあり。
p161-162「横瀬村」の中「根古舎城ハ(中略)城構主詳ナラズ、秩父別当武光、(中略)、後北條氏ノ時鉢形ノ家人支命ヲ受テ在城セシナリ。」とあり。
中世の城館跡関連の資料を調査する。
『秩父路の古城址』(中田正光著 有峰書店新社 1982)
「根古屋城と小御嶽城」
p120「その後根古屋城は北条氏の属城となり、鉢形北条氏家臣の浅見伊賀守が城代としてこの城の守りにあたる。」とあり。
p120-120 北条氏邦が家臣の朝見(浅見)伊賀守に宛てた書状について、記述あり。
『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会編 埼玉県教育委員会 1968)
p95「174 根古屋城」の項。「城主・居住者:北条氏直家臣(渡辺監物・浅見伊賀守)説、北条氏邦家臣説、秩父別当武光・同十郎武綱・同重弘・同重能説」とあり。
『関八州古戦録』(槙島昭武〔原著〕 中丸和伯校注 新人物往来社 1976)
p481-482「武州鉢形城没落事」の中に、根古屋城を浅見伊賀守らが守ったという記述あり。
秩父の地誌・歴史などに関する資料を調査する。
『新編武蔵風土記稿 [3]12』(蘆田伊人編集校訂 雄山閣 1977)
p179「根古屋城跡」の項に「渡辺監物・淺見伊賀守在城せし(後略)」とあり。
p237「別当水潜寺」の項に「開基阿佐美伊賀守慶延、法号勇光院殿胸剣慶延大居士、是当村里正重左衛門が先祖なり。」とあり。
p237「旧家者里正十左衛門」「阿佐美氏なり。」として後に、阿佐見伊勢守が北条氏邦から「阿佐美」改め「朝見」姓を賜ったことなどの記述あり。
『埼玉県秩父郡誌』(秩父郡教育会編 名著出版 1972)
p484「旧家阿佐美氏 当村の旧家に阿佐美氏あり。其の祖を伊勢守玄光と言ふ。」
p145 北条氏邦が朝見伊勢守に出した永禄12年7月11日付の文書が引用されている。
『秩父武甲山総合調査報告書 別編3 横瀬町地誌』(武甲山総合調査会 1987)
p15「根古屋城址」の項に「このため家臣朝見伊賀守が城主となり、また朝見氏も他城に移ったので渡辺監物が城代となった。」とあり。
『秩父武甲山総合調査報告書 下 人文編』(武甲山総合調査会 1987)
p97「元亀3年3月5日」「氏邦は、朝見伊賀守に横瀬の地を宛行う」とあり。
『横瀬村誌』(横瀬村誌編纂委員会〔編〕 横瀬村誌編纂委員会 1952)
p31「根古谷城墟 (中略)そこでその臣朝見伊賀守渡邊監物が城代として居住した」
p32「根古谷絹染色の井戸 根古谷武甲山御嶽神社里宮前にある古井戸当時根古谷城に居つた朝見伊賀守慶延は(後略)」
『名栗村史』(名栗村史編纂委員会編 名栗村史編纂委員会 1960)
p39-41北条氏邦から朝見伊賀守へあてた書状あり。
その他、調査済み資料は以下のとおり。
『論集戦国大名と国衆 2 北条氏邦と武蔵藤田氏』(岩田書院 2010)
『武蔵武将伝』(稲垣史生著 歴史図書社 1980)
『北条史料集』(萩原竜夫編 人物往来社 1966)
『鉢形北條領御調書』(大[ノ]鴻風 1983)
『埼玉の中世城館跡』(埼玉県立歴史資料館編 埼玉県教育委員会 1988 )
『関東の城址を歩く』(西野博道著 さきたま出版会 2001)
『武蔵野 古寺と古跡と家』(桜井正信著 有峰書店 1969)
『中世の城館跡 埼玉県秩父・児玉地方』(埼玉県立歴史資料館 1988)
『埼玉の中世城館 増補、改訂「比企の城館」』(埼玉県立玉川工業高等学校郷土研究部 1997)
『中世武蔵武士館跡の研究 2』(埼玉県立浦和第一女子高等学校郷土研究部 1981)
群馬県の「勢多」に関する資料
『勢多史帖(みやま文庫 126)』(柳井久雄著 みやま文庫 1993)
『南雲御殿遺跡(棚下砦跡):赤城山西麓における戦国時代の山城(赤城村埋蔵文化財発掘調査報告書 12』(赤城村教育委員会 1998)
『新里村百年史』(新里村[1996])
『群馬県立文書館収蔵文書目録 5 勢多・前橋地区諸家文書』(群馬県立文書館 1987)
『群馬県立文書館収蔵文書目録 10 勢多・前橋地区諸家文書』(群馬県立文書館 1992)
『大日本宝鑑上野名蹟図誌 』(薮塚本町(群馬県) あかぎ出版 1984)
埼玉雑誌
栗原一夫「鉢形北条家臣分限録小考」(『埼玉史談 48(1)』埼玉県郷土文化会 2001.4)
大野鴻風「鉢形北条氏覚書 2 氏邦の秩父入国鉢形入城と家臣の成立」(『埼玉史談 30(1)』埼玉県郷土文化会 1983.4)
岩田利雄「行伝寺過去帳よりみた後北条氏家臣 上」(『埼玉史談 35(2)』埼玉県郷土文化会 1988.7)
岩田利雄「行伝寺過去帳よりみた後北条氏家臣 下」(『埼玉史談 35(3)』埼玉県郷土文化会 1988.10)
- 事前調査事項
-
①「北条家分限帳」に朝見伊賀守の出自が「勢多」という記述がある。鉢形城関係の資料に、朝見伊賀守が出自である「勢多の城を守れ」と命令を下したという史実がある。
②松井田城も同時期に攻められ、その時の軍は上杉景勝と前田利家の連合軍らしい。
- NDC
-
- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 群馬県-歴史
- 城-群馬県-歴史
- 赤城村-群馬県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000091182