レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年01月24日
- 登録日時
- 2019/02/15 16:49
- 更新日時
- 2019/02/16 13:50
- 管理番号
- 20130124
- 質問
-
未解決
若津渡し(※現在の佐賀市諸富町と大川市の若津港の間の渡し)の渡し船の大きさと一度に乗れる人数を知りたい。
- 回答
-
諸富館所蔵の『消えていく渡し船』によると、五トン車一台を乗せれば、あとは人間が十数人と自転車数台で満員だったとの記載あり。
(2019.2再調査追記)
(参考文献・掲載箇所、内容)
『消えていく渡し船』
p38-39「グリコの自動車大河を渡る」に上記記載あり。
グリコのロゴ入りの販売車2台と人が6名、自転車が4台木造船に載っている白黒写真あり。撮影日は昭和三十年九月。
写真は書籍掲載後、江崎記念館に寄贈される予定との記載あり。
p36「渡しづくし、思い出づくし 若津←→諸富」
「(略)大正時代のころの手漕ぎの和船について、人が数人乗って、舳先に荷台を積む小型船と、扁平船(団平船)の言って長方形の木造船で、
人間だけならニ、三十名、荷馬車そしてその駄馬、自転車数台等混じって対岸の諸富に手漕ぎで行ったものです。(略)」
p40「ポンポン船、ポンと響かせ」
若津の渡しは、昭和初期から焼玉エンジンの発動機付渡し船となりました。それまでは手漕ぎでした。(略)昭和三十年代から、いわゆるポンポン船のディゼルエンジンに切り替えられていきました。(略)
p75「若津の渡し」鐘ヶ江ヒサヨさんのお話より
(略)昭和七、八年頃発動機船になりました。ガソリンは、一ヶ月で十八リットル入りのカンが四、五カン必要でした(略)
以下の資料に船の大きさ、人数等の記載はなかった。
『佐賀県大百科事典』
p860 渡し(わたし)
(略)かつて存在した若津渡しは、鉄道橋に平行してその上にあり、民間経営で大川渡しとも呼ばれた。佐賀、福岡両県を結ぶ代表的な渡しで最もにぎわい、昭和初期には発動機船が登場したという。(略)
『大川市誌』
p643 (二)河川の交通 1 港町としての若津
p1068 三 水上の交通 (三)渡船
- 回答プロセス
-
①諸富館所蔵の「消えていく渡し船」を確認、記載なし。
②諸富町史を確認、記載なし
③「消えていく渡し船」の内容をもう一度確認、上記の一文を発見し、利用者へ提供。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
-
- 『消えていく渡し船 追悼記録集』調 まどか/編集 水の原社 1982.3
- キーワード
-
- 筑後川(ちくごがわ)
- 渡し船(わたしぶね)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000251779