レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年02月08日
- 登録日時
- 2012/09/11 14:42
- 更新日時
- 2012/11/29 11:26
- 管理番号
- 埼浦-2012-047
- 質問
-
解決
調神社(つきじんじゃ)となりの公園にある石碑(複数ある)について書かれた資料がみたい。日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)の書ではないか。
- 回答
-
調公園の石碑について記述のあった資料を紹介した。
『浦和の石ぶみ 浦和歴史文化叢書 8』(浦和市郷土文化会 1987)
調神社・調公園にある石碑は以下のとおり。
p18 「31、文政8年(1825)白雲堂無相等句碑」
「無相は玉蔵院24世、連歌師として著名」とあり。
p24-25 「45、(年不詳)大熊渓雲碑」
碑文の最後に「陸軍大将兼議長二品大勛位親王熾仁題額太政官大書記官従五位厳谷修書廣群鶴鐫」とあり、題額は熾仁、書は厳谷修書、彫りは廣群鶴と思われる。
また、「調公園には、他に明治13年の「埼玉県人詢難之碑」があり、題額は、やはり熾仁親王である。」との記述があるが、「埼玉県人詢難之碑」を書いた人物の記載はなし。
p25-26「46、明治15年(1882)三子追福碑」
「埼玉県中学師範学校長補木原元札篆額」
「埼玉県中学師範生 岡本定撰」埼玉県十等属藤津雄風書」とあり。
p33-34 「58、昭和10年(1935)浦和耕地整理完成記念碑」
「埼玉県耕地課長従五位勲五等前川純三撰」「埼玉県師範学校教諭 服部誠一書」とあり。
p37 「63、昭和28(1953)長谷川かな女句碑」 「石工 蕨町 石勘」とあり。
『浦和市史 4〔1〕 近代史料編1』(浦和市 1975)
p645に記念碑を建てたという記事(明治14年4月15日東京日日新聞)あり。碑文を書いた人物の記載なし。
『新編埼玉県史 通史編 6 近代』(埼玉県 1989)
p806「埼玉県人殉難之碑」が県令白根多助の撰文で建設された、との記述あり。碑文を書いた人の記載なし。
『埼玉県警察史 1』(埼玉県警察本部 1974)
p274-275碑を建設した記述はあるが、碑文を書いた人の記載なし。碑の写真はあり。
『埼玉県行政史 1』(埼玉県 1989)
p150「「埼玉県人殉難之碑」を建立し、西南戦争の殉難者を顕彰した」とあり。
『目でみる埼玉百年 埼玉百年記念誌』(埼玉県 1971)
p37に「埼玉県人殉難之碑」の写真あり。碑文を書いた人の記載なし。
『埼玉県史 7 近代』(埼玉県 1939)
p110「次いで、13年5月に至り調宮境内に「埼玉県人殉難之碑」を建て、題額は陸軍大将兼右大臣議定官二品大勲位熾仁親王の御揮毫、撰文は県令白根多助、書は正五位日下部東作の筆になるものである。」とあり。
下記の資料に、日下部 鳴鶴の名は東作であるとの記述があり、複数ある石碑のうち日下部鳴鶴が書いた碑は、西南戦争の殉難者を顕彰した「埼玉県人殉難之碑」であることがわかる。
『国史大辞典 4 き~く』(吉川弘文館 1984)
p744「くさかべめいかく 日下部鳴鶴」
「1938-1922 明治・大正時代の書家。(中略)名は東作、字は子晹。はじめ東嶼、翠雨と号し、のち鳴鶴と号す。別号に野鶴、老鶴、鶴叟。(以下略)」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 関東地方 (213 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
-
-
『浦和の石ぶみ 浦和歴史文化叢書 8』(浦和市郷土文化会 1987)
-
『埼玉県史 7 近代』(埼玉県 1939)
-
『浦和市史 4〔1〕 近代史料編1』(浦和市 1975)
-
『新編埼玉県史 通史編 6 近代』(埼玉県 1989)
-
『埼玉県警察史 1』(埼玉県警察本部 1974)
-
『目でみる埼玉百年 埼玉百年記念誌』(埼玉県 1971)
-
『埼玉県行政史 1』(埼玉県 1989)
-
『浦和の石ぶみ 浦和歴史文化叢書 8』(浦和市郷土文化会 1987)
- キーワード
-
- 碑文
- 石碑
- 金石・金石文
- 日下部 鳴鶴(クサカベ メイカク)
- さいたま市(浦和区)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000111156