レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年02月15日
- 登録日時
- 2022/05/19 17:46
- 更新日時
- 2022/05/25 13:11
- 管理番号
- 0000110970
- 質問
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解決
大内義隆に請われ遣明船の副使として入明した策彦和尚の記録『策彦和尚入明記』に、山口紙と美濃紙が同程度の頻度で登場する。この山口紙について、室町時代から存在していたのか、どのような紙だったのかを知りたい。
- 回答
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質問の「山口紙」との関連は不明だが、山口県での製紙に関する資料の中で、室町時代や遣明使節について記述が確認できた下記資料を紹介。
『防長産業の歩み』(回答資料1)
p91-92に佐波郡徳地(現山口市)で生産されていた「徳地和紙」について記述あり。大内義隆の遣明使節として入明した周良策彦(しゅうりょう さくげん)和尚の日記の中に「徳地一束」などが見られ、遣明船の必要物資をあげた「渡唐方進貢物諸色注文」の中に「疏紙一枚於徳地漉文」との記録が見られるとのことで、大内時代から上質紙として徳地紙が生産されていたことが分かる。
なお、同資料p86-112に防長の和紙生産について書かれており、徳地和紙のほかに、山代和紙(現岩国市)など県内各地で生産されていた和紙について紹介されているが、遣明使節について言及があるのは徳地和紙のみ。
『防長造紙史研究』(回答資料2)
p19に「大内氏の領内に於いて最も顕著なる紙の産地は山口と佐波郡得地である」との記述あり。また、同資料p325の山口宰判、小郡宰判の造紙史の関する記述のなかに「周防の山口には大内氏時代に種々の紙を漉き、山口紙と云って支那へも渡した程」とある。この山口紙が正確に県内のどこで生産されていた紙かは不明。
なお、同資料p204によると、大内時代の終わりごろには徳地は「得地」と表記していた。
『山口県史 通史編 中世』(回答資料3)
p469の遣明船に関する記述の中に、京都の妙智院に所蔵される「天文十二年後渡唐方進貢物諸色注文」の内容について触れられている。明朝に提出される外交文書である遣明表に、徳地で漉かれた紙6枚と唐紙1枚を重ね合わせて1枚にした巨大な紙を使用したとある。
『徳地町史 改訂版』(回答資料4)
p147-150に「得地紙(原文ママ)の生産」の項があり、徳地の紙生産について紹介されている。ここでも遣明使節として入明した周良策彦和尚について触れられており、策彦が明において明人王惟東を訪問した際や寺僧を招いた際に、山口紙を送っていたとのこと。しかし、この山口紙については「これは徳地紙ではないかもしれないが、策彦は周防産和紙を贈答用に明に携行しているのであって、周防産和紙はかなりの良質のものがあったことが知られる」(p149)とあり、山口紙の産地は明確にされていない。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- パルプ.製紙工業 (585 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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1.山口県立山口博物館 , 山口県立山口博物館. 防長産業の歩み. 山口県教育委員会, 1981.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I065148382-00 (p91-92) -
2.御薗生翁甫 著 , 御薗生, 翁甫, 1875-1967. 防長造紙史研究. マツノ書店, 1974.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001173130-00 (p19,325) -
3.山口県 編 , 山口県. 山口県史 通史編 中世. 山口県, 2012.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024189353-00 (p469) -
4.徳地町史編纂委員会 編集 , 徳地町(山口県). 徳地町史 改訂版. 徳地町役場, 2005.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I060397377-00 (p147-150)
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1.山口県立山口博物館 , 山口県立山口博物館. 防長産業の歩み. 山口県教育委員会, 1981.
- キーワード
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- 製紙業--山口県--歴史
- 日本--外国関係--歴史--室町時代
- 日明貿易
- 大内, 義隆, 1507-1551
- 周良, 1501-1579
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000316403