レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/10/20
- 登録日時
- 2022/06/22 00:30
- 更新日時
- 2022/06/22 00:30
- 管理番号
- 町田-245
- 質問
-
解決
太平洋戦争時に、品川区の小学生が町田市に集団疎開してきたことについて知りたい。
- 回答
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品川区側の資料
・M69-C1『品川区史 通史下』
p.745-748 学童疎開
集団疎開対象人数・疎開児童数など。疎開先に、三多摩、静岡とある。
・M69-O2『品川の教育』
p.72 立会(たちあい)小学校 →戦時中は「東京市大井立会国民学校」といい、堺村へ集団疎開
p.76 伊藤小学校 →戦時中は「東京市伊藤国民学校」といい、町田町と南村へ集団疎開
p.78 鈴ヶ森小学校→戦時中は「鈴ヶ森国民学校」といい、鶴川村・忠生村へ集団疎開
町田市側の資料
・M10-O2『町田市教育史 上』
p.456~町田市域の学童集団疎開受け入れについて、鈴ヶ森・伊藤・立会国民学校それぞれのデータあり。
p.463~疎開児童の作文
p.468 経費
p.469 万松寺寮と妙延寺寮が空襲により焼ける。
・M10-C1『町田市史 下』
p.956- 集団疎開 受入れ状況の表、作文あり。
・M10-C6『目で見る町田の100年』に、次の写真あり。
p.108 疎開児童を迎える(S19年)「伊藤国民学校の児童ら。原町田駅」
・M177-O2『わたしたちの鶴川』
p.47~空襲と学童疎開 鶴川村の受け入れ状況が表で示されている。
p.48 万松寺に疎開していた人のおはなし
p.49 万松寺消失の体験談
p.66 万松寺焼夷弾あとの写真
・M17-C1『鶴川村誌』
p.180~「鶴川村では品川区鈴ヶ森国民学校の児童を左の五か寺に八月十三日受け入れることになった。」
5か寺は、万松寺、岩子山千手院、安全寺、慶性寺、妙福寺とあり、人数などが載っている。
p.182 昭和20年5月25日の戦災について。
・M15-C1『忠生村誌』
p.116 忠生小学校の年表に、「昭和18年7月、品川区鮫浜小学校児童200名、教師5名疎開収容」とある。
・M10-Y6『ふたたびくりかえすまい』
口絵 万松寺に落とされた焼夷弾と、貫通した万松寺の蔵の写真
p.154 品川区から寮母として町田へきた方の体験談
・M171-C1『わが町大蔵』
p.31 安全寺、品川区鈴ヶ森国民学校女子児童47人、職員、寮母等3人(昭和19年)
・M10-C0『町田地方史研究 第2号』
p.55- 学童疎開の記録「品川区立鈴ヶ森国民学校」
・M10-C7『学童集団疎開―町田・鶴川村へ―』
・M10-C1『はじめてのわかりやすい町田の歴史』
p.256~ 品川区の学童が疎開した寺の内訳等のデータ
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 10版)
- 参考資料
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- 町田市教育史 上巻町田市教育委員会/編町田市教育委員会
- 鶴川村誌鶴川村役場/著国府慎一郎
- はじめてのわかりやすい町田の歴史堀江 泰紹/著国書刊行会
- 品川区史 通史編 下巻品川区/編品川区
- わたしたちの鶴川町田市立鶴川第一小学校/編町田市立鶴川第一小学校
- 学童集団疎開-町田・鶴川村へ-梅田 素門/著梅田 素門
- 町田地方史研究 第2号町田地方史研究会町田地方史研究会
- わが町 大蔵大蔵町誌編集委員会/編町田市大蔵町町内会
- ふたたびくりかえすまい私の戦争体験記編集委員会/編町田市
- 品川の教育品川区教育委員会/編品川区教育委員会/発行
- 忠生村誌町田ジャーナル社
- キーワード
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- 学童疎開(ガクドウソカイ)
- 鈴ヶ森国民学校(スズガモリコクミンガッコウ)
- 伊藤国民学校(イトウコクミンガッコウ)
- 立会国民学校(タチアイコクミンガッコウ)
- 鶴川村(ツルカワムラ)
- 忠生村(タダオムラ)
- 万松寺(バンショウジ)
- 堺村(サカイムラ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000317517