レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年03月15日
- 登録日時
- 2014/03/17 14:42
- 更新日時
- 2014/03/24 11:36
- 管理番号
- 2009-0131
- 質問
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解決
盲学校の設立に関与された方々の調査をしている。関与された方の名前は判るのですが、その方の生年、没年、出身地、経歴までたどりつけないでいます。ついては、貴県の郷土史、教育史などから調べてください。
記
調査依頼:私立山形盲学校設立 大崎辰五郎
- 回答
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このたびのご依頼について、当館所蔵の郷土史、教育史等をお調べしてわかったことは次のとおりです。
資料①『山形県教育史 中巻』P328 によると、
「山形市按摩鍼灸術組合は組合長 厚綿春定を代表者として、『私立山形按摩鍼灸術講習所』の設立を山形市に申請し、組合の反主流派が玉津多介を代表者にして『私立山形盲学校』の設立を申請した。 (略) 山形市からの一本化の要請を受け、両者合議し、大崎辰五郎外25名が発起人となって『私立山形盲学校』の設立申請を1913(大正2)年1月20日に行い、同年4月18日、県知事小田切磐太郎によって認可された。 (略) 校長には医師佐々木春作が迎えられ、教員は大崎辰五郎・玉津多介・厚綿春定、他に会計1名が就任した」
資料②『創立五十周年記念誌 山形県立山形盲学校』P40~41 元教諭の方の寄稿によると、
「両派の26名の業者会議の結果、改めて大崎辰五郎、厚綿春定代表となって私立山形盲学校設立の申請書を再度山形市に提出、大正2年4月18日付けを以って認可を得た。 (略)
初代校長には佐々木春作先生を推戴して教師は選挙によって厚綿春定、玉津多介、大崎辰五郎、藤田学堂の4氏が選ばれ市内の徒弟14、5名を集めて授業を開始した。
当時の発起人の諸氏は視力不十分の身をかえりみず、辛苦困難を克服し私財を投じ合ってその目的を達成した (略) 」
資料③『新校舎落成 創立六十年記念誌 山形県立山形盲学校』P10 山形盲学校同窓会長の寄稿によると、
「試験に合格すれば退学してしまうので、創立より10年間で卒業者が僅か10人しかいない有様でした。そのようなわけで、学校の運営も苦しく職員もだんだん減り、厚綿、玉津両先生のみとなり (略) 」
P13には、大正2年4月18日付け認可書の文言が載っており、そこには
「山形市香澄町 大崎 辰五郎外25名
大正2年1月20日付願出私立盲学校設立ノ件認可ス」との記載があります。
また、P118には、歴代教職員の一覧があり、大崎辰五郎 教員 の勤務期間は「自大正2年8月21日 至大正8年3月31日」となっていました。
資料④『山形県特殊教育研究紀要 雪わる花芽 第24集』に特殊教育小史があり、そのP6に「山形市内の針灸業者大崎辰五郎外25名が、(略) 私立山形盲学校の設立を請願したところ、同年4月18日に認可された」とあります。
資料⑤『山形県史 近現代編 下』P543には、
「1913(大正2)年、大崎辰五郎(鍼接業)ほか23名の申請で、山形盲学校が知事の設置認可を受けた」との記述があります。
資料⑥『昭和29年 山形県事業所名鑑』P61に山形市内の「療術業」34事業者の一覧が記載されていますが、大崎辰五郎のお名前を確認することはできませんでした。
また、資料⑦『山形県の私学100年』には、山形盲学校が大正2年に設立された旨の記載はありますが、大崎辰五郎についての記載はありませんでした。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 障害児教育[特別支援教育] (378 9版)
- 参考資料
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- 資料①山形県教育史 通史編 中巻/山形県教育委員会編/1992(k372/ヤマ)
- 資料②創立五十周年記念誌/山形盲学校編/1963(k378.1/ヤマ)
- 資料③新校舎落成創立六十年記念誌/山形盲学校編/1972(k378.1/ヤマ)
- 資料④雪わる花芽 第24集/山形県教育委員会編/1979(k378/ヤマ/24)
- 資料⑤山形県史 通史編 第5巻/山形県編/1986(k209/ヤマ/5)
- 資料⑥山形県事業所名鑑 昭和29年/山形県統計協会編/1955(k670.35/ヤマ/s29)
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資料⑦山形県の私学100年/山形県総務部文書学事課編/1972(k372/ヤマ)
※( )は当館の請求記号です。
- キーワード
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- 大崎辰五郎
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 団体
- 登録番号
- 1000150698