レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/08/31
- 登録日時
- 2022/10/01 00:30
- 更新日時
- 2022/10/01 00:30
- 管理番号
- 6001057803
- 質問
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解決
近松門左衛門の顕彰碑が大阪市西成区にあると聞いた。
詳しいことが知りたい。
- 回答
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近松門左衛門の顕彰碑について書かれた資料と内容は以下のとおり。
・『難波大阪:郷土と史蹟』(牧村史陽/編 講談社 1975)
p.212 「近松門左衛門の碑 西成区太子町2丁目
飛田本通の天王寺線踏切りを越えた西南方、ごみごみした人家に囲まれた中に大きな碑が立っている。明治中期にいまの天王寺公園内音楽堂のあたりに建てられたものであるが、そこが明治三十六年の第五回内国勧業博覧会の敷地となったために、ここへ移転したのである。しかし、近松とは直接にはなんにも関係もない。(後略)」
・『大阪史蹟辞典』(三善貞司/編 清文堂 1986.7)
p.568-569
<近松門左衛門碑>松乃木大明神の境内にある巨大な碑である。「平安堂近松巣林子信盛碑」。題字は四天王大護国寺職権大僧正源応。側面に「西区京町堀上通三丁目一二〇番邸先考室上小右衛門 明治三十年(一八九七)春
発起人 男室上小三郎」。裏面に近松の有名な辞世、
それぞ辞世去ほどに扨もそののちに残る桜か花しにほはば
が刻まれている。『南海沿線ぶらり散歩』(昭和五十三年ナンバー出版刊)で著者の玉置幸孝氏は、「何故こんなところに近松の碑があるのか理解に苦しむのだ。関西の生んだ大作家のものが」と書いているが、そうした疑問が出るとはそれこそ理解に苦しむ。台石に「近松巣林子碑ハ 明治三十年春大阪市南区天王寺字塚原ニ建設シタルモ 第五回勧業博覧会開設ニ付 政府ヨリ移転ノ命降リ 依テ三十四年六月上旬 更ニ西成郡今宮村字今池ヘ移転ノ許可ヲ経テ 之ヲ建設スルモノ也。地主 室上小三郎 年四十九歳」とあるからである。近松は、享保九年(一七二四)十一月没。行年七十二歳。
・『釜ヶ崎天国:石島秀松伝』(竹島昌威知/著 三一書房 1994.11)
p.13-14「さすが竹さんや、くわしいなァ、その勢いで近松伝説のことも聞きたいのやが……」「近松伝説の方はそんなにくわしくないけど、少しくらい知ってる」
それならと、二人で動物園前一番街(旧飛田本通)を南へ歩き、今池市場の裏にある松の木大明神の社へやってきた。狭い境内に入ると正面拝殿の左手に、大きな近松門左衛門の顕彰碑が建っている。こんな所に何故近松の顕彰碑が、と、不審を抱くのも無理はない。この地と近松はなんの縁もなく、明治三十六年までは天王寺公園の一角にあった。
それを第五回内国勧業博のため撤去し、ここへ移されたものであると、竹田が教えてくれたが、秀松は腑に落ちず、「移転された理由は分かるが、近松の墓は小さいのに何でこんな大きいもん、誰が建てたんやろ」
「その質問はごもっとも。著作権の問題らしいが、縁戚関係のある人が近松の死後、自分が著作権継承者であることを顕示するため、こんなものを建てたという話や」「へえー、そんな昔でも著作権てあったのかいな。ほなこの猫塚は?」
「あれだけ沢山の作品を残した大近松のことや、そら版権もある筈やし、親戚なら著作権欲しがるのは無理もないこっちゃ。(後略)」
・西成区のホームページ
トップページ>観光・歴史> 文化・名所・旧跡
『近松門左衛門碑・猫塚』
https://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/page/0000000741.html#16(2022/8/31現在)
[事例作成日:2022年8月31日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 戯曲 (912 10版)
- 日本 (291 10版)
- 参考資料
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- 難波大阪 郷土と史蹟 牧村/史陽∥編 講談社 1975 (212)
- 大阪史蹟辞典 三善/貞司∥編 清文堂 1986.7 (568-569)
- 南海沿線ぶらり散歩 高野線編 ナンバー出版 1983.8 (43)
- 釜ヶ崎天国 竹島/昌威知∥著 三一書房 1994.11 (13-14)
- https://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/page/0000000741.html#16 (西成区のホームページ(2022/8/31現在))
- キーワード
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- 近松門左衛門(チカマツモンザエモン)
- 顕彰碑(ケンショウヒ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪,人物・団体
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000321957