1 田丸直昌を『国史大辞典』で確認する。直昌自身についての記述はない。「田丸藩」「川中島藩」の項目から、田丸氏は北畠氏の諸流で田丸城を居城としたことから田丸氏を名乗ったことがわかる。また、海津城(長野市松代)主を1598年(慶長3年)から1600年(慶長5年)の2年間務めている。
2 当館蔵書を「田丸」で検索する。『戦国武将 岩田藩主 田丸直昌と北畠・田丸氏の歴史』 田丸辻郎著 岩村町教育委員会 1996 【288/183】
p.157-p.286に「第5章 直昌の子孫たち」及び「第6章 明治維新と田丸の子孫たち」が掲載されており、嫡子の直茂と次男の直綱の明治以降までの系譜が確認できた。また、p.326に「田丸姓の全国の分布状況」があり、「5 九州の田丸姓の人々は、田丸氏が関ケ原役で改易となって、その一族、または、その遺臣が、福岡県の粕谷郡地方、鹿児島県の日置郡地方に移住・土着して、成立するに至ったものと考えられる。」との記載がある。しかし、「邦之助」は確認できない。
3 『姓氏家系大辞典 第2巻』 太田亮著 角川書店 1963 【288.1/オア/2】p.3609-p.3610に田丸姓の掲載があり、「2 村上源氏北畠氏族(-前略-)具安(ともや
す)(中務大輔、従四位下、左中将、田丸城主。天正十年、勢州より轉じて信州川中島に移り、七萬石を領す。後奥州會津にて病死)―某(兵庫頭)(-中略-) 又家傳には「北畠材親の三男具忠・田丸城に住す。其の子直昌、其の子直茂」とす。(-後略-)」との記載がある。直茂以後の系譜については、「4 幕臣」、「5 大隅の田丸氏」及び「6 雑載」に記載があるが「邦之助」は確認できない。
4 『寛政重修諸家譜 第8巻』続群書類従完成会 1980 【288.2/タミ/8】p.23に北畠(村上源氏)の系譜に「具安」があり、「(-前略-)天正十年伊勢国をあらためて信濃川中嶋にをいて七萬国を領し、慶長五年二月朔日領知を鞢じ、美濃邦恵那、土岐、可児三郡のうち(-中略-)このとし石田三成叛逆のとき居城岩村に控て、しばしば沂郷を襲ふ。没落ののち陸奥国會津にをいて死す。(-後略-)」と記載があり、子孫に関して「某 兵庫頭」の記載があるのみで、「邦之助」は確認できない。
5 『寛政重修諸家譜 第20巻』続群書類従完成会 1966 【288.2/タミ/20】p.38 「田丸」の記載に、「家伝に曰、北畠大納言材親が三男中務具忠伊勢国田丸城に住して田丸を潮流とす。某子中務大輔直昌美濃国岩村城に移住し、慶長五年石田三成に輿して関原に出陣し、軍敗れてのち伊勢国朝(あさ)熊(ま)に謫せられ、のち堀秀政にめし預けられて越後国に籠居す。某子兵衛尉直茂は、松平肥前守(前田)利長が招に応じ、加賀国あり。これより數代を歴て金大夫直好がとき、享保十四年御先手の興力にめしくはへる。直職は其三代の孫なり。(-後略-)」とあり、系譜として「直職」のあとに「直純」との記載があるが「邦之助」は確認できない。
6 「具安」と「直昌」が同一人物という記載は確認できなかったが、一連の文章中から同一人物を指すと理解してよいと思われる。