レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/12/26
- 登録日時
- 2019/02/09 00:30
- 更新日時
- 2019/02/09 00:30
- 管理番号
- 参調 18-0049
- 質問
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解決
①江戸時代後期の安政年間には、何回閏月があったか。
②閏月はいつ頃からはじまったのか。
③戦国時代末期、文書(書状)類に元号(年号)を使用できるのは守護だけと聞いたことがある。
このような当時の事情がわかる資料はあるか。
- 回答
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①『暦の百科事典』新旧暦月日対照表p432に安政年間の閏月の掲載があり、安政元年に閏の7月、安政4年に閏の5月があったことがわかる。
したがって、安政年間の閏月の回数は2回となる。
②質問にある閏月を使用する暦法は、太陰太陽暦法。
日本で正式に暦法を採用した時期については諸説あるが、日本書紀の中に「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」とあることから、持統天皇4年(690年)頃からという説が有力なようである。
(『暦の語る日本の歴史』 p78、『中世の古文書入門』 p20)
当時の暦は、中国から伝来した太陰太陽暦をそのまま使用していたため、日本で明らかに暦法が採用された、上記の690年代から閏月はあったものと考えられる。
このことから、調査資料1の「新旧暦月日対照表」を元に690年代最初の閏月である692年閏5月を回答とした。
また、日本国外では紀元前2500年頃のバビロニアで既に太陰太陽暦法が採用されていたほか、日本の暦法の元となった中国では、紀元前1000年頃の殷王朝で、この太陰太陽暦が用いられていたとの記述が確認できる。
③中世の古文書、年号関連の資料を調査したが、質問内容に完全に合致する記述は見つからず。
『中世の古文書入門』によれば、年号を使用する文書は公的な性質のもの(公文書、名字状など)であるとの記述がある。
また、同資料には戦国武将の書状等の掲載があるが、家臣に宛てた私的な書状には年号の記載がない一方、織田信長の楽市令の公布に関する制札(市場に掲示する立て札)には「永禄」の年号が確認できる。
なお、『中世の古文書入門』には戦国時代中期に東寺から能登国にあてた年貢の領収書の掲載がある。
この文書にも「天文3年」と年号の記載があることから、守護のみに年号の使用が限定されていたわけではないようである。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 時法.暦学 (449 7版)
- 参考資料
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- 1 暦の百科事典 暦の会∥編 新人物往来社 1986.4 449.3/KO p432、p490
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2 暦の大事典 岡田/芳朗?編者代表 朝倉書店 2014.7 449.036/KO -
3 暦入門 渡邊/敏夫?著 雄山閣 2012.5 449.3/KO -
4 暦の語る日本の歴史 内田/正男?著 吉川弘文館 2012.12 449.81/KO -
5 中世の古文書入門 小島/道裕?著 河出書房新社 2016.10 210.4/C -
1 戦国のコミュニケーション 山田/邦明?著 吉川弘文館 2011.10 210.47/SE -
2 日本の年号 所功∥著 雄山閣出版 1977.2 210.02/TO -
3 国史大辞典 第11巻 にた-ひ 国史大辞典編集委員会∥編 吉川弘文館 1990.9 210.03/KO/11 -
4 日本史大事典 第1巻 平凡社 1992.11 210.03/NI/1 -
5 日本史大事典 第2巻 平凡社 1993.2 210.03/NI/2
- キーワード
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- 暦
- 年号
- 古文書
- 中世
- 閏月
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事項調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000251558