レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/09/26
- 登録日時
- 2020/10/16 00:30
- 更新日時
- 2020/10/16 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-200399
- 質問
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解決
平重道編『伊達治家記録 2』(宝文堂出版販売, 1973)のp.432(慶長五年七月十二日条)に, 刈田郡小原村(現在の宮城県白石市)の野伏が伊達政宗公に味方したとの記述があるが,当時の刈田郡小原村は伊達の領地だったのか上杉の領地だったのか知りたい。
- 回答
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慶長5年7月時点での刈田郡の領主については,下記の資料に記載がありました。
資料1 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版, 2011【210.48/116】
「上杉景勝の居所と行動」-「慶長5年(1600)」の項
p.267 「(前略)7月以降,上杉勢と彼らの軍勢が陸奥・出羽・越後3か国で戦闘を交えたのである。結果,上杉領国は縮小し,苅田郡を伊達氏に,庄内3郡を最上氏に,佐渡を家康に奪われることになった。(後略)」
資料2 白石郷土研究会編『宮城県刈田郡歴史年表 上巻』白石郷土研究会, 1952【K211/シ1/1】
p.29 「1598年 慶長三」の項 「刈田郡上杉領となる(後略)」
p.29 「1600年 慶長五」の項「8月廿三日-刈田郡再び伊達政宗の領地となる」
資料3 平重道編『伊達治家記録 2』宝文堂出版販売, 1973【K205/タ3/2】
p.68 「解説」-「旧領七箇所を充行う旨の家康の判物」の項
「八月二十二日付徳川家康は政宗に宛て,刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井の七ヶ所を『右七箇所御本領之事候之間,御家老衆中江為可被充行進之候』として,総計四十九万五千八百二十二石九斗三升の地を賜わる旨の判物を与えた(後略)」
pp.444-445 「(前略)一刈田 一伊達 一信夫 一二本松 一塩松 一田村 一長井 右七箇所御本領之事候之間,御家老衆中江為可被充行進之候(後略)」
※返り点は省略しました。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
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- 藤井/讓治?編. 織豊期主要人物居所集成. 思文閣出版, 2011.6【210.48/2011.6】:
- 白石郷土研究会/編 古田 良一/校閲. 宮城県刈田郡歴史年表 上巻. 白石郷土研究会, 1952【K211/シ1/1】:
- 平重道/編. 伊達治家記録 2. 宝文堂出版販売, 1973.2【K205/タ3/オ2】:
- 刈田郡教育会/編. 刈田郡誌 全. 名著出版, 1972.7【K211/カ2-2】:
- 池/享∥編 矢田/俊文∥編. 上杉氏年表. 高志書院, 2003.9【288.3/2003.9】:
- 花ケ前盛明/編. 上杉景勝のすべて. 新人物往来社, 1995.2【289.1/ウカ1995.2】:
- 中田/正光?著 三池/純正?著. 北の関ケ原合戦. 洋泉社, 2011.2【210.48/2011.2】:
- キーワード
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- 宮城県白石市
- 伊達, 政宗(ダテ, マサムネ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000288317