レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022/01/04
- 登録日時
- 2022/02/11 00:30
- 更新日時
- 2022/02/11 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-210203
- 質問
-
解決
福島県新地町の新地城と谷地小屋要害について知りたい。
- 回答
-
1 「新地城」について
新地町図書館のホームページに記述がありました。
https://www.shinchi-town.jp/site/library/kyodo-jouseki.html(最終アクセス日 2021/12/23)
「名称:新地城(蓑首城)跡 所在地:谷地小屋字舘前
概要:相馬氏により築かれた。谷地小屋要害をつくったあと間もなく新しく築いたとされている。JR常磐線新地駅の西方約1.8キロメートルの地点の丘陵上にある。最も高い地点は,標高約48メートルで,眼下に周辺の地域が一望のうちに見下ろせる。
「仙台領古城書上」に『山,谷地小屋城,東西50間,南北50間』とあり,また「仙台領古城書立之覚」には,面積3,748坪とある。本丸跡と考えられる所は,東西南北とも数十メートルの平場をなしている。本丸の全周は土塁と,濠が残っており,さらに東舘,北屋形,西舘を囲んで外濠の跡もみられる。本丸を囲んで,西舘,東舘,北屋形がある。「奥相茶話記」や「東奥中村記」に築城の前後のことが記されており,それによると,谷地小屋要害を捨て,新地の山に城を構え門馬雅楽介を城代においた。雅楽介は1年ほどで病死し,泉田甲斐を新たに城代とした。築城して20数年後,天正17年5月に,伊達政宗は,相馬の虚をついて攻め入り,新地,駒ヶ嶺を手に入れ,亘理重宗を城代とし,その後大町主計が城代となった。」
なお上記説明にある「仙台領古城書上」「仙台領古城書立之覚」等の資料をはじめ,下記の資料では「新地城」のことを「谷地小屋城」「山谷地小屋城」と表記しているようです。※【 】内は当館請求記号
資料1 『仙台叢書 第4巻』宝文堂出版販売, 1971【K081/セ1-2/4】
(p.110)「仙臺領古城書上」-「宇多郡」-「谷地小屋村」-「山」-「一 谷地小屋城」の項
資料2 宮城県史編纂委員会編『宮城県史 32』 宮城県史刊行会, 1970【K201/ミ1/32】
(p.110)「仙臺領古城書立之覺」-「宇多郡 弐ケ城」-「谷地小屋村」-「一 山谷地小屋城」の項
資料3 紫桃正隆『仙台領内古城・館 第4巻』 宝文堂, 1974【K521/シ1/4】
「新地町内の古城館」の項
(pp.632-634)「谷地小屋城」
「一,位置 相馬郡新地町谷地小屋字館前(旧新地村)
現在の新地町の中心「新地」の集落から北西に約一粁入ると,北面に山を控えた館前の集落にいたる。裏手(北)の丘陵のうち,西寄りの最高所の平場が谷地小屋城のあとであった。(中略)
三,歴史 『古城書上』に,城主,杉ノ目八郎左衛門,義胤(註,相馬氏)家来。没落後,大町三河指置かれ,天正年中まで居住。政宗記に天正十七年五月二十七日城主となる―とある。「別書」に―泉田甲斐のち杉ノ目参河が住み,天正十七年政宗の攻略にあいて没落―とある。」
資料4 新地町史編纂委員会編『新地町史歴史編』 新地町教育委員会, 1999【K275/シ1/3】
「第2編 中世」-「第5章 天下と奥州と宇多地域」-「第1節 天正の争乱と戦国城郭」
(pp.380-385)「境目の城」の項
「(前略)新地城は、蓑首城・山谷地小屋城という別称をもつ城郭である。新地町の北部にあたる当城は,低地にはさまれた丘陵上に立地し,五〇メートルほどの丘陵頂上部分に主郭が築かれている。(後略)」
(第3編 近世)-「第1章 幕藩制社会の成立と新地」-「第1節 仙台藩の成立と新地の領主」
(pp.447-448)「町域の諸要害」の項
「(前略)新地にはこのほかに蓑首城があり,慶長期までは大町三河が拠っていたが,慶長5年(1600)に坂元に引き揚げて後は廃城になったようである。(後略)」
資料5 沼館愛三『伊達諸城の研究』 伊吉書院, 1981【K521/ヌ1】
「宇多郡(相馬郡)」
(pp.138-139)「谷地小屋舘」の項
「宇多郡(相馬郡)新地村谷地小屋,西北方約一粁の字舘前北側,標高四八米一高地である。駒ケ嶺北方約四粁に当る。観聞志の伝うる処によれば,当城は相馬義胤家臣杉目八郎左衛門の居舘であるという。天正頃の人である。伊達政宗之を攻略し,家臣大町参河守をして之を守らしめた。(後略)」
(p.139)「蓑頸舘」の項
「谷地小屋舘の西方丘上にあり,一名西舘という。東西一五〇米南?北約七〇米の地域で高さ約五〇米である。南北は谷小屋舘と同様低地で東方は谷地小屋舘との間に幅狭き低地があり,西方は南北より谷地に入り込み,堀代用をなしている。当舘は相馬氏の将杉目氏の居舘である。谷地小屋舘の附属というべく谷地小屋舘陥落と同時に当舘も攻略された。そして,谷地小屋舘付近の地は,亘理美濃守に下賜された。当舘の価値は全く谷地小屋舘と同様であるから省略する。」
資料6 亘理郷土史研究会『郷土わたり 18号(昭40.7)』亘理郷土史研究会, 1965【PK217.1/キ】
(pp.12-14) 平間 稔 『亘理支城「谷地小屋要害」の遺跡』
「(前略)もともと永録,元亀,天正年代戦国期に新地城といわれたのは此のお屋敷の西方約一粁半館前と称せられる東西に連らなる丘陵地帯の西方突出部台地が,その遺跡で俗に蓑頚の館といわれた古城のことである。(中略)伊達氏の天文崩れ以来,輝宗政宗父子は先業を恢復すべく伊具宇多二郡に進出し,丸森,金山,小斎,金津,新地,駒ケ嶺諸城において相馬氏と屡々錯雑な争奪戦が繰り返されその史料中には往々谷地小屋城云々の語句(奥相茶話記等)が現れるが之は蓑頚の館といわれた新地城のことで前述の谷地小屋要害を指したのではない。(後略)」
2 「谷地小屋要害」について
再掲資料3 紫桃正隆『仙台領内古城・館 第4巻』 宝文堂, 1974【K521/シ1/4】
(pp.636-637)「新地町内の古城館」-「谷地小屋要害(桜ノ館)」の項
「一,位置 相馬郡新地町谷地小屋字古屋敷(旧新地村)(中略)
国鉄「しんち」駅より西に四〇〇米の地点,水田の中に「お屋敷」と呼ばれる黒沢敏郎氏屋敷が見える。ここが谷地小屋要害のあとであった。(中略)
三、歴史 ここには伊達家臣、松川七郎左衛門が住んだと伝わる。
「東奥中村日記」に見える永禄年間の争乱記の中に―宇多郡新地に屋舗を構え(今の地より東の谷地なり),藤橋紀伊を差置かれ,谷地小屋と云えり―とある。谷地小屋要害の築成は戦国期になされたものらしい。」
再掲資料4 新地町史編纂委員会編『新地町史 歴史編』 新地町教育委員会, 1999【K275/シ1/3】
「第3編 近世」-「第1章 幕藩制社会の成立と新地」-「第1節 仙台藩の成立と新地の領主」
(pp.447-448)「町域の諸要害」の項
「(前略)町域のほとんどの村々は,仙台藩家臣中最大の知行高を誇った一門亘理伊達氏の知行地であり,その中心にある谷地小屋城は新地要害とも呼ばれ,仙台藩領南端を守備する要害と位置付けられていた。(後略)」
資料7 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 7 福島県』角川書店, 1981【291.03/ニ11/7】
(p.1108)「新地町」-「中世」の項
「(前略)永禄7年(1564)の頃相馬氏は新地(谷地小屋)に要害を構え,藤橋紀伊を置き,天正年間(1573~92)には伊達・相馬の激しい攻防が繰り返されたが,天正17年5月伊達政宗は駒ケ嶺・新地を急襲陥落させ,以後当町域は伊達氏の領地となった。(後略)」
資料8 『日本歴史地名大系 7 福島県の地名』平凡社, 1993【291.03/ニ12/7】
(p.253)「新地」の項
「(前略)寛永七年(一六三〇)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)によると,現新地町域内の村々の一部の貫高をもって伊達成実に隠居分二〇〇貫文が加増されているが,大戸浜・杉目・小川の三ヵ村が宇田(宇多)と称されるのに対し,真弓村・高倉畑村・福田村・埒木崎村・谷地小屋村などは「新地之内」とされている。なお浜街道の谷地小屋宿は新地宿,谷地小屋村にあった谷地子屋城を改修した亘理伊達氏の陣屋は新地要害と称されている。」
資料9 亘理郷土史研究会『郷土わたり 119号(平30.4)』亘理郷土史研究会, 2018【PK217.1/キ】
(pp.37-43) 月田秀吾「要害2ケ所拝領は亘理伊達家だけ 谷地小屋要害はどうなっている」
「谷地小屋要害」の項
「資料によればこの要害は新築なった現在の新地駅から西方二〇〇メートルほど西側の田んぼの中にあり,平城形式だったようだ(新地町谷地小屋古屋敷)。
もともと相馬氏が築いたもので,伊達晴宗公の頃(天文時代)から伊達氏と相馬氏の境界線として取ったり取られたりを繰り返してきた。周囲は田んぼなどの湿地帯で,高低差もないため、戦闘のための拠点としてはきわめてぜい弱だったことから,相馬氏としてはこの谷地小屋城を捨て,西の山あいに新たに城を築き「蓑頸城」として防御ラインの一角としてきた。
慶長年間に政宗公は再び谷地小屋城を生かしてこの地方の支配拠点とするため,家臣の大町参河守元頼を守将としてこの地に置いた。(後略)」
- 回答プロセス
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資料1-9を紹介した。その他に下記資料も調査したが,該当する記述は見つからなかった。
資料10 新地町教育委員会新地町史編さん委員会編『新地町史 資料編』 新地町教育委員会, 1982【K275/シ1/1】
資料11 新地町史編纂委員会編『新地町史 自然民俗編』 新地町教育委員会, 1993【K275/シ1/2】
資料12 亘理町史編纂委員会編『亘理町史 上巻』 亘理町, 1975【K217.1/ワ2/1】
資料13 亘理町史編纂委員会編『亘理町史 下巻』 亘理町, 1977【K217.1/ワ2/2】
資料14 山元町『山元町誌』 山元町, 1971【K217.2/ヤ2】
資料15 渡辺信夫『宮城の研究 3』 清文堂出版, 1983【K200.8/ミ2/3】
資料16 渡辺信夫『宮城の研究 4』 清文堂出版, 1983.7【K200.8/ミ2/4】
資料17 仙台郷土研究会編『仙台藩歴史事典』 仙台郷土研究会, 2012【K205/2012.1】
資料18 『福島県史 第1巻』 福島県, 1969【212.6/フ3/1】
資料19 『福島県史 第2巻』福島県, 1971【212.6/フ3/2】
資料20 『福島県史 第3巻』 福島県, 1970【212.6/フ3/3】
資料21 『福島県史 第26巻』 福島県, 1972【212.6/フ3/26】
- 事前調査事項
- NDC
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- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
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- . 仙台叢書 第4巻. 宝文堂出版販売, 1971.10【K081/セ1-2/イ4】:100
- 宮城県史編纂委員会/編. 宮城県史 32. 宮城県史刊行会, 1970【K201/ミ1/オ32X】:110
- 紫桃正隆/著. 仙台領内古城・館 第4巻. 宝文堂, 1974【K521/シ1/ウ4】:632-634,636-637
- 新地町史編纂委員会/編. 新地町史 歴史編. 新地町教育委員会, 1999.3【K275/シ1/イ3】:380-385
- 沼館 愛三/編著. 伊達諸城の研究. 伊吉書院, 1981【K521/ヌ1】:
- 亘理郷土史研究会. 郷土わたり 創刊号 (昭35.7)-. 亘理郷土史研究会, 1960.7-【PK217.1/キ】:
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会?編. 角川日本地名大辞典 7. 角川書店, 1981.3【291.03/ニ11/イ7】:1109-1110
- . 日本歴史地名大系 7. 平凡社, 1993.6【291.03/ニ12/7R】:252-253
- キーワード
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- 福島県相馬郡新地町
- 谷地小屋城
- 蓑首城
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000312027