レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 県立長野図書館 (2110021) | 管理番号 (Control number) | 県立長野-21-084 | |||||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2021年8月11日 | 登録日時 (Registration date) | 2021年08月11日 12時13分 | 更新日時 (Last update) | 2021年08月19日 11時04分 | |||||||
質問 (Question) | 須坂-万座間を結ぶ万座道路(上信スカイライン)の開削整備など、今までの経過について知りたい。長野電鉄が有料道路としていた時期もあったようだが、料金所はどこにあったか。 | |||||||||||
回答 (Answer) | 長野県側から万座温泉に至る直通のバス路線は、昭和27年に開通した須坂-万座を結ぶものが最初で、現在の県道112号から466号を経由する上信スカイラインと呼ばれる路線である。開削、整備等については、以下の資料を紹介した。 県道112号(大前須坂線)の開削整備については、『信州高山村誌 第2巻 歴史篇』 高山村誌編纂委員会編 高山村誌刊行会 2006 【N214/99/3】p.717 「V 世界に開かれた社会経済-近代 3 昭和戦前期 救農土木事業」に、県道須坂草津線の道路改修として記載がある。この「須坂-草津線」という名称は、昭和12年6月1日に県道として認定された際の名称で、長野県の須坂建設事務所に問い合わせた際に判明した。p.717によると、当初は町村道「須坂万座線改修工事」として起工したが、昭和12年に県道に認定された後、県の事業として工事が進められ、この道は現在の112号と同じ路線で、県境まで道路改修が行われたとある。 また、『信州高山村誌 第3巻 地誌篇』 高山村誌編纂委員会編 高山村誌刊行会 2006 【N214/99/3】 p.154-159 「道路交通の発展」に、バスの運行状況と路線網の変遷についての記述があった。p.706の年表中の昭和57年(1982年)10月31日に「万座線バス運行休止」とある。 昭和32年発行の国土地理院50000分の1地形図では、県道112号の途中(長野県側の全長のほほ半分)までは1.5m程度の自動車道で、その後峠までの道は幅員1.5m未満または徒歩道と思われる記載となっていた。 『信州高井 牧の民俗』 高山村教育委員会編・刊 1979 【N382/47】 p.77 「万座街道」に、高山村牧を経由する万座温泉までの道について、記述がある。「万座峠」が一般的に指すものと牧村落の人々が呼ぶ「万座峠」とは異なることを含め、県道112号線と、山田温泉・五色・七味をたどる山田道が使われてきた経緯などが記されている。 『嬬恋村誌 上巻』 嬬恋村誌編集委員会編 嬬恋村役場 1977 【N250/58/1】[図書館送信参加館公開 最終確認2021.8.14] p.1011に「箱根土地専用道路」の記述として、 西武鉄道を創業した堤康次郎は青年時代に浅間山麓一帯と万座温泉の観光開発を考えていたといわ れるが、その目的の会社を設立したのが箱根土地株式会社である。(中略)嬬恋村三原から鬼押出し を通り、長野県の沓掛までの一六キロの間を許可をとって専用道路を造成した。昭和六年七月工費四 万円で着工し、幅員六メートルの道路を開いた。(中略)戦後国土開発はこれを舗装し、三原からさ らに万座温泉まで延長したが、観光開発は道路にあるということをこの専用道路は如実に示した。 とあるが、これは万座ハイウェーを指すと思われ、長野県側からつながるいわゆる万座道路については触れられていない。 また、p.1054に昭和49年12月10日現在のバス運転時刻表がある。 p.1096の「国土計画の施設と西武バス」では、 (前略)昭和一一年から同一七年にかけて須坂万座線を万座峠まで完成。この頃は第二次大戦に発 展する時で、万座アパートを作り、学童を大量に万座へ送り込んで、笹の実を採集し、食用パンを作 るという意図があり、然も当時は長野県以外からは大量の人員輸送の方法が無かったのである。 と書かれている。p.1120では、「県道大前須坂線」に路線の付け替え等の経緯が記されていた。 『嬬恋村誌 下巻』 嬬恋村誌編集委員会編 嬬恋村役場 1977 【N250/58/2】[図書館送信参加館公開 最終確認2021.8.14] p.2291-2301 「万座温泉史 昭和の発展」に箱根土地による土地買収、長野電鉄バス路線開通による馬方組合の様子、万座の開発・ライフラインの整備などが記されている。 長野電鉄の社史である『四十年のあゆみ』長野電鉄編・刊 1960 【N686/10】 p.31 「観光ホテルの建設および道路の開発」に、 観光に先立って、最も必要な仕事は、ホテルの建設と、道路の整備開拓にある。長野県も早くか ら、ここに着目して、自動車道路の開設に努めた。県道としてのこの方面に設けられたものは、次の 3線である。 山田-万座線 山田温泉・五色温泉間(昭和9年新設) 長野-万座線 牧・万座温泉間(昭和11年完成) 中野-硯川線 上林・渋峠間(前橋街道線の一部、昭和12年完成) このうち、上林・渋峠間は、志賀高原の大動脈ともいうべき幹線で、我が社は、高原開発着手以 来、しばしば、改修に努めてきたものである。群馬県も本県に呼応して、草津町を起点として、 渋峠-白根、万座温泉間に自動車道路開設を決定し、両県は提携して、上信国境観光道路の開発にあ たってきた。(後略) とある。また、p.143の鉄道・バス路線図によると、牧・万座間は、山田道から万座峠を越える路線ではなく、現在の路線と同じように見受けられる。 p.62「昭和27年上期」に、「万座線のバス開通も、我が社の長期にわたる努力が実って9月1日には、そのスタートを切ることになった。」とあった。また、p.63-64の「昭和31年上期」には、 (前略)観光事業を展望すると、志賀高原は強力な同業者の観光企画の対象となって、大型貸切バ スが陸続乗入れる状況となり、多年心血を注いで施設や道路の整備開拓に犠牲を払ってきた我が社と しては、漫然放置できない事態に直面した。(中略)万座温泉の一角にバスの車庫と営業所を設け、 当社の私設道路を有料道路として開放すること。(中略)以上のような新企画がこの期の株主総会で 附議されている。これらは漸次後期になって、実現を見ることとなった。 とあった。ただし、志賀高原方面の事項については、「昭和31年後期」に実現の記載がみられたが、万座線に関する事項の記述は確認できなかった。また、『長野電鉄100年のあゆみ』 長野電鉄編・刊 2021 【N686/10c】 p.42には、 注目された新路線は、スカイラインの先駆であった万座線で、27年8月27日から運行を始め、9月 1日より正式営業に入った。非公式期間5日間の収入は20万円を計上、期待される新路線であった。 とある。p.42の表4-5では、万座線(牧~万座温泉)の免許申請が昭和26年11月11日、免許交付が昭和27年6月3日とわかる。また、p.47に 観光客が増加するにつれ、他社もまた志賀高原への進出を企図し、昭和31年ごろになると、有力 各社の進出が目立つようになった。まず、国土計画興業が三原~万座間16㎞の私道を開設、軽井沢 から定期バス運行が開始され、32年春にはスキー場を開いて、白根山に至るロープウェイ(530m) の建設に着手した。また、東急系にあっては、草軽電鉄の経営陣を強化し、草津方面への自動車道 の拡充を着々とすすめていた。 このような動きはいずれも当社営業と競合するものであり、当社としても慎重に対応策を検討し たが、当面の緊急課題として次の3方針をうち出し、新しい事態に対処することとした。 ①熊の湯と草津温泉を結ぶバス輸送の確保 ②万座温泉の開発 ③丸池を中心とする新期諸計画の推進 昭和31年5月の上林~丸池間の空中ケーブル架設申請、同年9月24日の万座線私有道路の有料道路 申請(32年11月15日許可)、同年12月の丸池第三リフト建設などは、いずれもこの方針に沿った施 策であった。(後略) とある。このページ上部に「万座有料道路」の写真があり、料金徴収所の立て看板とバス、および下車している人々が写っている。眺望の良い開けた場所のように見受けられる。 『長野電鉄60年のあゆみ』 長野電鉄編・刊 1981 【N686/10a】 p.140-141「長野電鉄沿線案内図」によると、万座線は、須坂-牧-万山望-万座という経路と思われる。また、p.158-162にかけて長野電鉄全体の「バス路線の変遷」がある。 『写真が語る高井の歴史』 高井郷土史刊行会 1994 【N214/78】p.145に また、県当局は、恐慌対策を兼ねて未改修道路の改良を行った。村関係で大規模なものには、須 坂-万座・草津スカイラインの改修工事がある。昭和九年から一八年までかけて、牧から乙見平を へて県境までの十六・六キロを改修した。しかしこの道路改修は、自動車がやっと通れる程度のも のだったので、戦後はすっかり荒廃してしまった。 とある。ページ下部には、「万座線の河原橋開通式(昭和2年ころ)」の写真がある。P.146には、「県道須坂万座線の改修工事起工式。子安神社にて(昭和10年ころ)「県道須坂万座線の工事状況を視察する一行(昭和15年ころ)」、p.148には「県道須坂万座線の予定地を現地調査する関係者(昭和10年ころ)」などの写真がある。 県道112号について、長野県須坂建設事務所へ照会したところ、設置、付け替え等の記録によると 昭和12年6月1日認定 須坂-草津線 昭和34年8月1日認定 湯沢牧線 昭和34年8月1日認定 須坂-山田線 昭和47年3月2日認定 大前須坂線 という記録があるとのこと。同様に466号は、昭和56年12月21日に認定、供用開始となっている。 上記県道の認定について、当館所蔵の『長野県報』を調査したところ、『長野県報 昭和12年6月1日』 「長野県告示 第468号」に、道路認定の記載があり、「須坂草津線」として、起点が上高井郡須坂町、終点が上高井郡高井村(群馬縣界)、経過地が府縣道須坂山田線、高井村牧となっていた。 また『長野県報 昭和47年3月2日』 「長野県告示 第111号」に、道路区域の決定として、「大前須坂線」として、区間を上高井郡高山村大字牧字湯沢滝沢万外1番の184地先から須坂市大字須坂213番地までの26.548㎞としている。 なお、『長野県報 昭和54年3月12日』 「長野県告示 第189号」に大前須坂線の上高井郡大字牧字源内2657番地の5地先100mほどの区間で、道路の幅員 「14.3~25.0メートル」 が「16.6~28.5メートル」に変更されていた。このほか5か所で20~90メートルの区間が幅員を広げています。この告示の中では、大字牧字源内2657番地の5地先100mほどの区間の幅員が一番広くなっていた。 昭和34年の『長野県報』を探したが、8月1日のものが欠号となっており、確認できなかった。 県道466号にあたる牧干俣線は、『長野県報 昭和56年12月21日』 「長野県告示 第887号」に、道路区域の決定として記載があった。 道路開発、群馬県側での開削された道路の買い取り、有料道路料金所の場所、県への譲渡などの経緯について、長野電鉄総務課へ照会したが、刊行された社史に記述されている以上のことは、不明とのこと。料金所は、有料区間5.6kmのなかで眺望の良いところのようだが、場所は今となっては不明とのこと。また、バスの路線は、開通当初から、現在の県道112号から466号を通る路線で営業していたのではないか、とのこと。 | |||||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1 長野県側から万座温泉へ至る道について調べる。『歴史の道調査報告書』や経路となっている上高井郡高山村の村誌を調べる。小串鉱山に通じる「毛無道(けなしみち)」や松川渓谷沿いの「山田道(やまだみち)」については地図に記載があるが、「万座道(まんざみち)」という記述は見受けられるものの地図に記載はなく、これが現在の県道112号を指すものか判断できない。また、「万座峠に至る」といった記述と実際の経路が、峠越えなのか尾根伝いに至るのか判断できないものが多く、県道112号線の前身が、江戸時代からあった道か新規に開削されたものかわからなかった。 2 依頼者の質問文から、上信スカイラインの群馬県側を有料道路としていたらしいことが書かれていたので、長野電鉄の社史を調べる。直近の『長野電鉄100年のあゆみ』を調べる。20年区切りで刊行しているようなので、遡って調べていく。『四十年のあゆみ』に、バス路線開通時の経緯が詳しく記されていたが、県道112号線の開削についての詳細な記述はない。 3 群馬県側の状況について、『群馬県史 通史編』を見ていく。嬬恋村の開発についての記述はあるものの、「上信スカイライン」について特記したものは、確認できない。『嬬恋村誌 上巻』に箱根土地(後の西武グループ・国土計画)による万座開発の記述を見つけるが、「須坂万座線を万座峠まで完成」の記述の起点がどこを指すのか判断できない。『嬬恋村誌 下巻』に、長野電鉄バス路線開通によって影響を受ける馬方組合の運動等が記されていた。 4 『写真が語る高井の歴史』に戦前の長野県による道路整備についての事業や当時の写真が掲載されていた。また、『信州高井 牧の民俗』に高山村牧を経由して万座温泉にいたる道「万座街道」についての記述を見つける。 5 長野電鉄に有料道路の料金所を置いた場所を照会する。あわせて、箱根土地から道路を買い取ったような経緯があったかどうかも照会したが、社史にある以上はわからないとのこと。バス事業を運営している部門にも問いあわせたが、料金所の場所は不明とのこと。 6 県道を管理している須坂建設事務所に照会したが、道路の認定、供用開始の時期以外は不明とのこと。112号線関係では、 昭和12年6月1日認定 須坂-草津線 昭和34年8月1日認定 湯沢牧線 昭和34年8月1日認定 須坂-山田線 昭和47年3月2日認定 大前須坂線 と名称が変わっていることがわかった。 7 所蔵している国土地理院の地図で有料道路を営業していた時期に近い 1/25000地形図、1/50000地形図で、料金所を探したが判別できなかった。また、同時期の観光ガイド、道路地図等も見たが、掲載は確認できなかった。 <調査済み資料> ・『長野県上高井郡誌 歴史編』 上高井郡誌編纂会編 上高井教育会 1962 【214/18/2】 ・『創業三十年』 長野電鉄 1950 【N688/1】 p.62 「万座温泉」 万座線開通前のもののため、当時は松川渓谷沿いに七味温泉までバスがあり、 その後徒歩で峠を越える行程を紹介しています。 ・『長野電鉄80年のあゆみ』 長野電鉄編・刊 2000 【N686/10b】 ・『長野県史 近代史料編 第7巻 交通・通信』長野県編 長野県史刊行会 1981 【N209/11-1/7】 ・『須坂・上高井の百年』 須高地域史研究会編 須坂新聞社 1984 【N214/58】 ・『自然と人のふれあう村』 高山村公民館編 龍鳳書房 1997 【N214/85】 ・『写真集須坂・小布施・高山・若穂百年史』 須高郷土史研究会ほか編 須坂新聞社 1981 【N214/49】 ・『群馬県史 通史編7 近現代1政治・社会』群馬県史編さん委員会編 群馬県 1991 【213/129-1/7】 ・『群馬県史 通史編8 近現代2産業・経済』群馬県史編さん委員会編 群馬県 1989 【213/129-1/8】 p.941-942に、「利根吾妻地方のバス開業」の表があります。 ・大島登志彦著 「群馬県におけるバス路線網の変遷」『新地理』第31巻第2号 1983 長野県側の須坂から1952年9月1日、長野電鉄のバスが万座へ乗り入れた。(-中略-)また、この 間の1965年6月30日には万座-山田峠間が開業し(西武, 長野電鉄)高原のバス観光ルートが形成さ れた。 の記述がある。 ・『歴史の道調査報告書XXIII-XXIX』 長野県教育委員会編 長野県文化財保護協会復刊 1990【N682/53-1/5】 ・『長野県市町村分図 改訂版』 信濃毎日新聞社 1984【N290.3/59a】 ・『最新 長野県市町村地図』 信濃毎日新聞社 1997【N293/22b】 ・『長野県広域道路地図』 人文社/1985 【N293/4】 p.8 バスの停留所名がある地図ですが、牧以降の万座線の経路には停留所名の記載がない。 ・『イラスト信州情報マップ』 信濃毎日新聞社 1984 【N293/1】 p.77 絵図上に上信スカイラインと記述あり ・『信州百峠』改訂普及版 井出孫六ほか監修 郷土出版社 1995 【N290/158a】 ・『長野県報 昭和54年4-8月 告示』 | |||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | 箱根土地による道路開発が戦前に行われ、のちに長野電鉄に譲渡されたらしい。また、有料道路廃止後は道路を県に譲渡したらしい。 | |||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) |
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寄与者 (Contributor) | ||||||||||||
備考 (Notes) | ||||||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | |||||||
登録番号 (Registration number) | 1000303014 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |