レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2008/06/18
- 登録日時
- 2008/12/11 02:10
- 更新日時
- 2009/04/02 15:47
- 管理番号
- 埼浦-2008-015
- 質問
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解決
①寄居町周辺を中心として栄えた富士講の一派、丸正鐘講(まるしょうつりがねこう)に関する歴史・活動状況などの情報が知りたい。
②山中湖村Webサイトにある「山中湖村指定文化財」によると、富士講「鯉奉納碑」という碑があり、1801年、この丸正鐘講の人々が修行のために訪れ、放生会というしきたりにより鯉を放した記念に建てられたものと思われる、という旨の記述あり。この碑と丸正鐘講の関係についても知りたい。
- 回答
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①丸正鐘講に関する、歴史・活動状況について
丸正鐘講について記述があったもの・関係資料を以下にあげる。
岡田博・平野栄次「埼玉県の富士講と富士塚」(『富士講と富士塚 (日本常民文化研究所調査報告 第4集)』 平凡社 1993)p89-123
p95-110「埼玉県北部の富士塚」に、丸正鐘講の歴史・活動等の詳細な解説あり。
p95に創立者についての記述あり。「創立者、初代鐘行鏡山は、江戸期の武州榛沢郡用土村の通称『お代官』小渕家に先代富五郎次男として、文化十一年に生まれている。」とある。なお、用土村は現寄居町。また、丸正鐘講の初登山は、弘化4年(1847)となり、初代鐘行鏡山33歳の年になる旨の記述あり。「鯉奉納碑」建立については記述なし。
岡田博「北武蔵の富士講-○正(まるしょう)講の地域と歴史」(『富士浅間信仰』 雄山閣出版 1987)p159-175
p161-163に、丸正鐘講の元講である〈丸正講〉の概説あり。埼玉郡騎西領正能村(現騎西町)の一行初山(青木半右衛門)が講祖で、三三度登山成就が元禄12年(1699)とあり、初登山は寛文7年(1667)との記述あり。p163-169に丸正鐘講の詳細な解説あり。上記『富士講と富士塚』と同著者のため、内容が重なる部分あり。「鯉奉納碑」建立については記述なし。
中嶋信彰「富士信仰に係わる雨乞い-児玉郡美里町関の事例について」(『埼玉民俗 第25号』 埼玉民俗の会 2000)p71-79
参考情報として、p71に美里町の関にある浅間神社の池は、「『放生会』的な風習を持ち、縁日で贖われた金魚・鯉等が数多く放たれた」という記述あり。p74に、「騎西町正能の青木氏開基の富士講『丸正』講が寄居町用土に伝わり、小渕鐘行鏡山によって発展した枝講であり、埼玉県北部では絶大な勢力を誇っていた」との記述あり。
『児玉郡市の富士浅間信仰 改訂版(はもり 第2号)』(埼玉県立本庄高等学校社会科研究部 1992)
p6に、丸正鐘講は丸正講の枝講とみられる旨の説明あり。
『騎西町史 通史編』(騎西町教育委員会 2005)
p561-562に丸正講についての概要があり、その中に「秩父・大里方面に数多く組織された丸正釣鐘講も丸正講からの枝講である」との記述あり。
小川博「埼玉県寄居町北部地域富士塚見学行」(『埼玉民俗 第13号』 埼玉民俗の会 1984)p62-66
主に富士塚の探索記。p65に、小渕家には、丸正鐘講の大先達鐘行鏡山以来の資料があるとの記述がある。その他、丸正鐘講についての記述が散見される。
橋本祐可子「川崎の丸正講 埼玉県域における富士信仰の理解のために」(『きんもくせい 第2号』 上福岡市教育委員会 1996)p60-70
丸正講についての全般的な解説はあるが、丸正鐘講についてはp62に「かつての児玉郡・榛沢郡に存在した丸正講は、講印の下に先達の名前の『鐘行鏡山』(榛沢郡用土村出身)の一字の「鐘」を付け加えていることから、その講集団は一般に「○正鐘」と呼ばれている」の一文のみ。
『富士講の歴史』(名著出版 1983)
p272富士塚の一覧表中に、〈丸正鐘講〉の名があるのみで、鯉奉納碑の記述はなし。
野村幸希「埼玉県における富士塚の類型」(『立正大学北埼玉地域研究センター年報 第11号(1987年)』 立正大学北埼玉地域研究センター 1988)p37-45
p39に丸正の富士塚について記述あり。また、p40の「埼玉県所在富士塚地名表」に、丸正の構築した富士塚のリストがあるが、丸正講と丸正鐘講の判別つかず。
②調査の結果、丸正鐘講と鯉奉納碑との関係を示す資料は見あたらず、詳細は不明。
上記『富士講と富士塚』によると、〈丸正鐘講〉の創立者初代鐘行鏡山は、文化11年(1814)榛沢郡用土村(現寄居町)生まれ。山中湖畔の「鯉奉納碑」建立が1801年ならば、年代の矛盾が生じるが、このことについては資料が見あたらないため判明せず。
- 回答プロセス
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自館目録および『埼玉雑索』を〈富士講〉〈富士 & 信仰〉〈富士塚〉で検索し、該当する資料を確認した。
以下、記述の見あたらなかった資料。
『山中湖村史 1~5』(山中湖村 1977-1997)
『川本町文化財資料 1』(川本町郷土を知る会 1977)
赤石光資「埼玉県内の富士(浅間)塚・浅間神社 その基礎的所在調査」(『埼玉民俗 第10号』 埼玉民俗の会 1980)p88-108
野村幸希「埼玉県における『塚』の調査 富士塚を中心として」(『立正大学北埼玉地域研究センター年報 第10号』 立正大学北埼玉地域研究センター 1987)p66-69
『児玉町史 民俗編』(児玉町 1995)
『美里町史 通史編』(美里町 1986)
『騎西町史 民俗編』(騎西町教育委員会 1985)
『図説日本民俗誌 埼玉』(岩崎美術社 1986)
『埼玉の民俗』(埼玉県教育委員会 1966)
『ふるさとの民俗文化』(さきたま出版会 1989)
『富士信仰研究 創刊号、第2号、第3号、第5号』(富士信仰研究会 2000~2004)
『富士山遺文拾遺 創刊号-20号』(岡田博 2006~2007)
『滅びゆく富士講と富士塚』(甲文堂出版部 1975)
『富士信仰と富士講』(〔三浦家吉〕 〔1981〕)
『富士・御岳と中部霊山』(名著出版 1978)
奈良原春作「富士講の推移と資料」(『埼玉民俗 第9号』 埼玉民俗の会 1979)p51-54
- 事前調査事項
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《山中湖村指定文化財》 山中湖村史跡文化財として、富士講「鯉奉納碑」が紹介されている。それによると、「富士山信仰が盛んだった頃、各地から富士講と呼ばれる信者達が、苦しい修行の果てに富士山頂を目指しました。この碑は1801年、現在の埼玉県寄居町の富士講の一派・丸正鐘講の人々が、八海巡りと呼ばれる厳しい修行のためにこの地を訪れ、捕らえられた生き物を放してやる放生会というしきたりにより鯉を放した記念に建てられたものと思われます。富士五湖に放流が行われた最も古い記録であり、また、その頃から埼玉県と本村との交流を示す資料としても大変貴重な史跡です。」とあり。
(http://www.vill-yamanakako.com/index.html 山中湖村 2008/06/15最終確認)
「新編埼玉県史 別編2」p108-「富士講」の項のp109に、いくつか富士塚が列挙されており、丸正釣鐘講の名が散見される。これは「富士講の歴史」から引用したもの。
- NDC
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- 民間信仰.迷信[俗信] (387 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『富士講と富士塚 (日本常民文化研究所調査報告 第4集)』(平凡社 1993)
- 『富士浅間信仰』(雄山閣出版 1987)
- 『埼玉民俗 第25号』(埼玉民俗の会 2000)
- 『児玉郡市の富士浅間信仰 改訂版(はもり 第2号)』(埼玉県立本庄高等学校社会科研究部 1992)
- 『騎西町史 通史編』(騎西町教育委員会 2005)
- 『埼玉民俗 第13号』(埼玉民俗の会 1984)
- 『きんもくせい 第2号』(上福岡市教育委員会 1996)
- 『富士講の歴史』(名著出版 1983)
- 『立正大学北埼玉地域研究センター年報 第11号(1987年)』(立正大学北埼玉地域研究センター 1988)
- キーワード
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- 講
- 丸正鐘講
- 富士山
- 民間信仰-寄居町-埼玉県
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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回答欄資料の著者より情報の提供をいただく(2009/04/02)。以下、資料情報。
「南都留郡郷土誌」(南都留郡連合教育会 S13.10.25発行)という資料のp133-134に「山中放鯉の碑」に関する記述がある。
県立未所蔵。《NDL-OPAC》を検索したところ書誌情報は以下の通り。
原本代替請求記号 YD5-H-特221-80 (マイクロフィッシュ)
タイトル 南都留郡郷土誌
責任表示 山梨県南都留郡連合教育会編
出版地 瑞穂村(山梨県)
出版者 南都留郡聯合教育会∥ミナミツルグン レンゴウ キョウイクカイ
出版年 昭和13
形態 215p ; 22cm
全国書誌番号 44016547
団体・会議名標目 山梨県南都留郡連合教育会 ∥ヤマナシケン ミナミツルグン レンゴウ キョウイクカイ
書誌ID 000000618091
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000049609