室田吉左衛門、浦野重平、成田源弥、川中島河井村の若林弥右衛門について、書籍に所収されている松代藩家中の分限や城下の屋敷割図等に、名前は確認できなかった。
『長野県史 近世史料編 第7巻(1)北信地方』 長野県編 長野県史刊行会 1981【N209/11/7-1】のp.15-40 「寛文元年 真田幸道家中分限帳」に浦野姓の人物は、
浦野六左衛門 (七十五石)
浦野権六(二百五十石)
の2名。p.106-110 「寛政3年 真田幸弘江戸・在所奥向分限帳」は江戸屋敷の分限帳だが、4名の名前は確認できない。また、p.204-225 「文久年中 真田幸民家中分限帳」の浦野姓の人物は、
浦野勇右衛門 (金弐両上壱人下四人)
の1名のみ。室田姓、成田姓、若林姓は確認できなかった。
『信濃史料』は、古代から江戸時代初期までの古文書などの史料を活字に翻刻し、年代順に編集した30巻32冊の全集だが、これに収録されている史料中の人名索引を確したが、室田姓の人物は確認できなかった。浦野姓(p.34-35)、成田姓(p.169)、若林姓(p.247)の人物も何人かいるが、調査の4名の人物は確認できなかった。
なお、この『信濃史料』は、長野県立歴史館のサイトにある「
信濃史料」【最終確認2021.1.9】でアーカイブされおり、本文をPDFファイルで見ることができる。検索もできるが、人名は記述の揺れが大きく、確度があまり高くないので、索引巻と併用することを勧めた。
『長野市誌 第12巻 資料編 近世』長野市誌編さん委員会編 長野市 1997 【N212/318/13】の「松代藩政」の項目中p.12-26 「寛文十二年八月 真田幸道家中分限帳控」に浦野姓の人物は、
浦野庄左衛門 (七拾五石)
のみ。また、同書の「上田藩川中島領と塩崎知行所」「町と村」の項目中の史料に、川中島村関係のものがあったが、若林弥右衛門および若林姓の人物名は確認できなかった。
なお、川中島河井村の「河井村」は「川合村」と書き、明治期は真島(ましま)村、昭和に更北(こうほく)村となり、後に長野市に合併している。一方、「川中島町」は昭和31年に昭和村と川中島村が合併した町で、後に長野市に合併している。この川中島村は、大正13年に今里村と笹井村が合併してできている。笹井村は、上氷鉋(かみひがの)村と四ツ屋村が前身となっている。川中島と呼ばれる地域と川合村を前身とする地域では、少し距離があり同一とみるには無理があると思われる。
所蔵している各地域の史誌類を調べたが、若林弥右衛門についての記述は確認できなかった。
飯島文庫は、幕末の松代藩士で故実家の飯島勝休(1815~1888)が、松代藩主の命で藩史編纂のため収集した史料・図書等を収めたもの。松代藩関係史料集、藩主・藩士の伝記、系譜類、藩士の歌集のほか同藩出版物および勝休著作の有職故実関係図書があるが、現在は長野県立歴史館に移管されている。当館では、一部をマイクロフィルム化したものを所蔵している。飯島文庫目録は当館ホームページの HOME > 本・情報をさがす >
郷土資料 にあるPDFファイル【最終確認2021.1.9】で確認できる。
なお、この目録中の分限帳や藩士名が確認できそうな史料は次のものになる。すべてではないが、ほぼマイクロフィルム化されているので、当館内で閲覧することができる。複写も可能。ただし、和紙に墨で書かれているため、裏写りしていて判読が難しいものもある。
・「(松代藩)御分限帳 天保13年 写」 マイクロNo.11 (156-363コマ)
・「(松代藩)御家中分限帳 写」 マイクロNo.11 (364-539コマ)
・「(松代藩)分限帳 天和3年 写」 マイクロNo.11-12 (540-20コマ)
・「(松代藩)分限帳 万治2年 写」 マイクロNo.12 (21-47コマ)
・「(松代藩)宝暦以来之御役人 写」 マイクロNo.12 (48-120コマ)
・「(松代藩)御分限帳 元文5年 写」 マイクロNo.12 (121-161コマ)
・「(松代藩)御分限帳 文政11年 写」 (2年か?) マイクロNo.12 (162-338コマ)
・「(安政6年)御役人帳」 マイクロNo.12 (515-581コマ)
・「(享保3)分限帳」 マイクロNo.12 (584-623コマ)
・「松代家士行状記」 マイクロNo.12-13 (624-32コマ)
・「明暦分限」 マイクロNo.13 (77-106コマ)
・「(天明丙牛)江戸奥向分限帳」 マイクロNo.13 (107-121コマ)
・「(享保四亥年八月改)乾徳院様部屋住之節御分限帳」 マイクロNo.13 (122-136コマ)
・「寛永十酉年御分限帳」 マイクロNo.13 (137-151コマ)
・「御家中知行分限帳」 マイクロNo.13 (152-208コマ)
・「御分限帳」 マイクロNo.13 (209-240コマ)
・「本藩名士小伝 上中下」 河原綱徳 マイクロフィルム無し
・「享保分限」 マイクロNo.13 (259-294コマ)
・「(享和3年)御家中屋舗円図面之払」 マイクロNo.13 (295-313コマ)
・「松代家中系譜 上下」 マイクロNo.13 (338-443コマ)
・「当御家中諸士略系図 写」 マイクロNo.13 (482-501コマ)
・「松代藩廃古諸家略系」 マイクロNo.13 (530-570コマ)
当館の「信州ナレッジスクエア」から検索するとインターネット公開している史料を見ることができる。「信州デジタルコモンズ」上でインターネット公開している次のコンテンツが、松代藩の藩士を探すことができるもの。
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[松代藩]御家中分限覚 【N280.3/9】
信州松代藩真田家の家中分限帳である。家老矢沢将監・大熊五郎左衛門などの知行取りをはじめ、切米取りなど。その他、寺院・医師・各口留番所役人、奥女中・門番・屋根葺き、牧野島船頭給にいたるまで書き上げてある。ただし、記載事項は、氏名・石(扶持)高・役職名だけで、その他の召出・家督・生没年などはない。編纂年次は滝川三九郎奥様・御隠居様・出羽守様などの記事があるので、4代藩主信弘の部屋住み時代、つまり3代藩主真田幸道のころのものである。【最終確認2021.1.9】
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松代藩士系図 【N288/3】
表題のとおり、信州松代藩士の系図である。写本。小型横帳。編者不明。家老以下給人格の家約100家の系図がおさめられている。上級藩士のみで、内容は比較的簡略である。巻末に絶家した20数家のかんたんな由緒が朱筆で記載されている。松代藩士系図はかずかず残されているが、本書はその一つであり、一般的なものである。【最終確認2021.1.9】
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松城屋鋪附 全 【N216/14/】
3代藩主真田幸道の宝永年中(1704~11)の松代藩家中の屋敷割図である。松代町は、南は舞鶴山、北は御城、西は神田川、東は関屋川に囲まれた街であり、御城を中心として、その周辺には上級武士の屋敷、中ごろには中級武士の、城下町の入口付近には下級武士の屋敷が配置された。 図は清須町の武家屋敷から始まる。清須町の両側には武家屋敷が軒を連ねる。途中一軒の明屋敷がある。この明屋敷は、他の侍町にも見られる現象である。裏清洲町と連なる。さらに、木町侍町が続く。御城に近いので、比較的石高の高い上級家臣の屋敷が続く。殿町・片羽町などと呼ばれた。昔、八人の代官が居住していたので、その呼称がついた代官町があり、近くに馬場町・柴町・裏柴町とつづく。町八町と呼ばれる町人町の馬喰町・紙屋町・紺屋町・鍛冶町などの町名も見える。【最終確認2021.1.9】
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真武内伝 附録 全 【N288/134/2】
真武内伝の付録には、主として次のような記事が掲載される。1.真田幸隆以降の真田家の系図を6代幸豊(幸弘)まで。2.昌幸以降幸弘までの系譜の人々の御居判(花押)。3.真田家初代信之の藩主引退後の柴村での生活に召し連れられた藩士の氏名。この人々は、信之死後は町内表柴と裏柴に居住した。4.上州沼田(群馬県沼田市)の地理並図と信州上田合戦備ノ図。5.伊賀守様御事として、2代信政の兄信吉の系譜の伊賀守兵吉(在沼田)についてふれる。これは、真田支藩として上州に3万石を領したが、やがて領地は幕府により没収され、本家真田家に帰した。6.松代3代藩主に誰が就任するかの経緯にもふれる。このように、この巻には種々雑多の記事が掲載される。【最終確認2021.1.9】
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秘鑑松用備忘録 全 【N216/22】
これは、松代藩3代真田幸道のとき、幕府から命じられた数々の勤仕の記録である。それは「江戸御城御手伝御用」「越後高田検地御用」「日光御普請御手伝」「当国高遠検地御用」「善光寺御堂建替」「東海道砂浚御用」「朝鮮人来朝御馳走御用」「松本城受取御用」「日光御名代御用」「当国中野騒動」の10項目にわたる。これによって、初代真田信之のときまでに貯えられたといわれる莫大の貯蔵金が大量に消費させられた、という。 これは、関ヶ原の戦及び大坂夏・冬の両陣における、真田昌幸・信繁(幸村)父子の豊臣側への参陣に原因があるといわれている。 例を「江戸御城御普請御手伝被 仰付候事」でみると、明暦3年(1657)の江戸大火で、江戸城が類焼したとき、その復興の御手伝い普請に、家老小山田采女などを始めとして、多数の松代藩武士・職人が動員された。【最終確認2021.1.9】
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松代藩士分限石高帳 写 【長野県立歴史館蔵】【最終確認2021.1.9】
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侍屋敷之図(嘉永年間 1848~1854) 【真田宝物館蔵】【最終確認2021.1.9】
利用者調査済みの『信濃史料叢書』には、『眞武内伝』があり、「御家中衆之事」および「矢澤家之事」ほか省略を含む35ほどの各家の系譜、家歴がある。上記で公開されている「真武内伝 附録 全」は、翻刻されたものと全く同じではないと思われたので、確認するよう伝えた。
『松代町史 下巻』大平喜間多編 臨川書店 1986(松代町役場発行 1929の復刻)所収の「真田幸道時代士卒給禄高」(付録p.1-19)は、寛文の頃とあり、紹介した『長野県史 近世史料編 第7巻(1)北信地方』と同じものと思われるが、文書の所蔵先の記載がないため確定できない。ここでは、75石と石高は一緒だが、「浦野平兵衛」となっており、名前が一致しない。同一人物だとしても、呼称で書かれているため、家督を継いだことで呼称が変わっているのかもしれないが、詳細は不明。
また、「真田幸民時代士卒給禄高」(付録p.20-52)は明治2年のため、確認作業はしていないが、こちらも所蔵先等の出典が記載されていない。