レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009年08月08日
- 登録日時
- 2010/12/14 09:55
- 更新日時
- 2011/03/23 09:11
- 管理番号
- 山形県-2009-0030
- 質問
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解決
庄内藩士加藤直矢(かとうなおや)に関する資料はあるか。
- 回答
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当館に所蔵資料から、下記の資料をご紹介します。
資料① 加藤直矢 P237
資料② 加藤直矢 P63
資料③ 戊辰戦死招魂碑 P253~256
資料④ 明治八年北海道開拓 P200
資料⑤ P78
資料⑥ 加藤直矢君碑 P16
資料①によると、明治26年に赤川流域の人々が鶴岡大宝寺松原水神社境内の赤川修治告成碑のかたわらに直矢の彰徳碑を建立したことが記載されています。資料⑥に加藤直矢の顕彰碑について記載されています。所在地と造立年月日のみの記載で、詳細については確認できませんでした。
- 回答プロセス
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加藤直矢(かとうなおや)について調べる。資料①②より抜粋
加藤直矢 嘉永2(1849)1.25~明治25(1892)2.13
庄内藩士戸田摠蔵の次男として鶴岡家中新町に生れ、長じて加藤寿平の婿養子となる。北海道開拓大判官をつとめた松本十郎の実弟。加藤家の先祖は頼母と称し、寛永9年(1632)庄内丸岡に流謫となった旧熊本藩主加藤忠広(清正の長子)の遺臣で、代々庄内酒井家に仕えたと伝えられる。慶応4年(1868)戊辰戦争に出陣。維新後の明治5年(1872)には松ヶ岡開墾に参加した。打続く赤川の氾濫防止のため明治18年(1885)赤川筋水利土功会が設立されて、官民協力による内務省の河川改修工事が始められたとき、工事掛中村正国のものに選ばれて工事監督の任にあたる。三川橋下流を中心とする難工事は明治22年(1889)に完了、竣工式は明治24年(1891)6月22日に行われて、功により賞杯の賜与をうける。これより直矢は地元の費用負担等未解決諸問題の責任を痛感、事態収拾のため身を挺して心血を注ぎ、遂にこれを落着させてこのとき感激の余り遺書を認めて自刃した。享年44。明治26年(1893)2月、赤川流域の人びとは鶴岡大宝寺松原水神社境内の赤川修治告成碑のかたわらに直矢の彰徳碑を建立、裏面にはその死を惜しんだ86人に及ぶ関係官民の名がある。
下記の資料には、記載を確認できなかった。
『赤川 治水と利水』『青龍寺川史』『山形県議会八十年史』『川の碑』
- 事前調査事項
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庄内藩士戸田文之助の次男で、後に加藤家の養子となる。松本十郎の実弟。戊辰の易に出征している。
- NDC
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- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 資料①新編庄内人名辞典/庄内人名辞典刊行会編/1986(K281.03/シヨ)
- 資料②荘内人名辞書/阿部正己編/1937(YK281.03/アベ)
- 資料③鶴岡市史 下巻/鶴岡市編/1975(YK232.1/ツル/3)
- 資料④凌霜史 松ヶ岡開墾場百二十年のあゆみ/武山省三編著/1997(K611.24/タケ)
- 資料⑤赤川史/佐藤誠朗/1966(YK614.3/サト)
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資料⑥鶴岡の石造文化財/鶴岡市文化財愛護協会編/1995(K186.7/ツル)
※( )は当館の請求記号です。
- キーワード
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- 加藤直矢
- 治水
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000075157