レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021/02/24
- 登録日時
- 2021/03/11 00:30
- 更新日時
- 2021/03/11 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-200035
- 質問
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解決
慶長6年(1601年),仙台開府時の人口は約5万人といわれているが,このことに関して記述がある資料があれば教えてください。
- 回答
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1 仙台開府時の人口を約5万人と記述している資料として下記があります。(【 】は当館請求記号です。)
資料1 小倉博『仙臺』仙臺市教育會, 1924【K292.5/オ1-7】
p.8「起源-仙臺開府」の項
「仙臺城は慶長七年五月十八日竣功を告げ,町割も出來たので,八年八月邦君を始め士民悉く移住する。家臣凡八千戸,町民凡二千百戸,寺方凡二百五十戸,その他を併せて總戸數一萬八百五十戸,人口五萬二千を算した。」
2 近世初期における仙台藩の人口については,以下の資料にも関係する記述がありましたので,参考までにご紹介します。
資料2 宮城県史編纂委員会編『宮城県史 2』 宮城県史刊行会, 1966【K201/ミ1/2】
第一章第五節「藩領の確定と人口」のうち,p.56「中期以前の人口」の項
「(略)仙台藩の中期以前の正確な人口は知られていない。豊臣秀吉が朝鮮征伐に際し全国に戸口調査を命じた時,伊達氏もこれに応じて領内の『村々家数,奉公人,侍中間,百姓,舟人』を報告した事例はあるが(『政宗君記録引証記』),内容は伝わらない。寛永の鎖国以来『宗門改め』がきびしくなつて,村ごとに戸口や人口が明かになつたが,仙台領全体の総人口については明かでない。史料の上でようやく知られるのは元禄三年(一六九〇)以降で,伊達家旧蔵現在仙台市博物館所蔵の『伊達家勘定方』に,この年の仙台領奥州分,いわゆる『御郡方』の『百姓人頭(戸主)四万六千弐百人余,人高五十万七千九百人余』とあるのが初見である。(後略)」
資料3 仙台市史編纂委員会編『仙台市史 第1巻』仙台市, 1954【K225/セ1-3/1】
前編第四章「三,城下の状態(二)」のうち,p.206-207「城下人口」の項
「仙臺城下の人口は幾何を算したものであろうか。町屋敷分に就ては之を明示したものが在るが,侍屋敷その他に就てのそれは存在せぬから,諸種の資料によつて推測するに止まらねばならぬ。侍屋敷分などに就て推測を立て得る最初の時期は,藩政前期に属する寛文八・九年(一六六八・九)である。寛文繪圖に氏名を現わしている組士以上の侍の數は二五二一である。(中略)但し,この時期における町屋敷の人口は不明であるから,城下總人口は算出し得ない。」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
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- 小倉博/著. 仙臺. 仙臺市教育會, 1924.11【K292.5/オ1-7】:
- 宮城県史編纂委員会/編. 宮城県史 2. 宮城県史刊行会, 1966【K201/ミ1/2】:
- 仙台市史編纂委員会/編. 仙台市史 第1巻. 仙台市, 1954【K225/セ1-3/1】:
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000295085