レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 県立長野図書館 (2110021) | 管理番号 (Control number) | 県立長野-19-120 | ||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2019年03月15日 | 登録日時 (Registration date) | 2020年03月30日 15時02分 | 更新日時 (Last update) | 2021年04月01日 12時20分 | ||||
質問 (Question) | 犬山城主成瀬正寿が中心となって寄進した槍ヶ岳の鎖について知りたい。 | ||||||||
回答 (Answer) | [鎖と犬山城主成瀬正寿の関係について] ○『槍ヶ岳開山 播隆』 穂苅三寿雄 穂苅貞雄共著 大修館書店 1997 【N786/84a】 ※著者のひとりである穂苅貞雄氏は父の三寿雄(みすお)氏の後を継ぎ、槍ヶ岳山荘を経営しており、『私の槍ヶ岳』(朝日新聞社)などの著作がある。また父の三寿雄氏は『槍岳開祖播隆』(昭和38年 私家版)の著作がある。後述の「小説『槍ヶ岳開山』の周辺」の項によると、貞雄氏は新田次郎氏が播隆の小説、『槍ケ岳開山』(文芸春秋社)の構想を練っている段階で新田次郎氏から相談を受けたり、松本方面の取材の案内を頼まれ同行した人物である。 p.229-232「小説『槍ヶ岳開山』の周辺」の項より まず冒頭で「『槍ヶ岳開山』は小説・フィクションであって史実とは多くの点で違っていると述べたうえで、p.231には以下の記載があった。 「播隆が槍の岩壁につけた鉄鎖についても新田氏は、江戸時代の鉄は非常に高価なもので、五十七メートルもの鉄鎖のための多量の鉄がそう簡単に集まるはずがない。播隆の背後には強力なスポンサーがいたはずだとして、当時の犬山城主正寿が、尾張藩の家老の地位から一国一城の藩主になりたいという祈願をこめて、播隆に鉄鎖を寄進したものという筋書きの小説を組み立てた。しかし犬山藩と播隆の鉄鎖の関係は、史実とは全く縁のない虚構である。鉄鎖は播隆の熱心な信者達により、鍬、はさみ、鎌などの寄進があって造られたことは先にのべたところである。」 p.232 「-前略-播隆を世に知らしめた新田氏の功績は多大であるが-中略-現実の問題として、新聞紙上に、あるいは権威ある百科事典の類いでさえも小説そのままを誤って史実として取り上げているものがある。」 〔槍ヶ岳の鎖について〕 ○『槍ヶ岳開山 播隆』 穂苅三寿雄 穂苅貞雄共著 大修館書店 1997 【N786/84a】 p.112-120「槍ヶ岳に鉄鎖をかける」 〈鎖をかけた理由とかけるまでの経緯〉 ・播隆は中田又十郎らの勧めによって、槍ヶ岳登山者の安全を図るため鉄鎖をかけることを計画し、天保7年大阪屋佐助が『信州槍嶽畧縁起』を印施し、濃、尾、三、信の四ケ州で配布。播隆らも信飛濃などを遍歴して浄財を集めた。 ※中田又重郎は「大西」という元禄から鷹庄屋の役を務めている家の別家で「小西」と呼ばれた家の者。飛騨新道の開発にも協力するなどこの方面の地理に詳しく、播隆の槍ヶ岳登山にはいつも同行した。 ※大阪屋佐助は播隆の熱心な信者であり、播隆と共に槍ヶ岳へも登った。松本の海産物商で相当に裕福であったと思われ槍ヶ岳の鉄鎖のための資金集めに奔走した。 ・播隆の徳を慕い、はさみ・包丁・鎌などの喜捨が集まり、たちまちに鉄鎖の鋳造ができた。美濃の古老の話によればこの鉄鎖は美濃の関で造られたという。 ・鎖は沿道の人びとが槍ヶ岳行きの鉄鎖と称して、宿場から宿場へと運搬を奉仕し、3、4か月後には小倉村に到着した。(※『行状記』) ※『開山暁播隆大和上行状略記』 棚橋智暁他 明治26年 棚橋智仙 ・鎖を槍ヶ岳に運びあげようと準備していたが、松本藩がこれを禁止した。理由は播隆が槍ヶ岳を開山し、その名声が高まるにつれ播隆に対する流言も種々取沙汰されるようになっていたこと、加えてこの年(天保7年)の大飢饉は、播隆が清浄な山をけがしたので神が怒って凶作になったと言いふらす人々もあった。これらのことから松本藩は主な信者を詰責し、槍ヶ岳へ鉄鎖をかけることを厳禁し、鉄鎖を差し押さえた。(※「務台家文書」) ※旧長野県南安曇郡三郷村野沢(現安曇野市)の庄屋、務台与一右エ門景邦の「公私年々雑事記」の中の播隆に関するもの ・その後播隆は失意のうちに一旦美濃へ帰ったが中田又重郎は百瀬茂八郎ら近隣の有力者と図って松本藩へあらゆる手をつくして許可を得るよう奔走した。しかし、天保7.8年の大飢饉で各地に暴徒が蜂起、また大阪では大塩平八郎の一揆が起きるという世相のため許されなかった。 ・4年後の天保11年(1840年)にようやく豊作になり、世情も平穏になったので中田又重郎らの懇願が聞き入れられ鉄鎖をかけることが許された。 〈かけた鎖について〉 ・鉄鎖をかけることが許されたとき、播隆が百瀬氏に宛てた謝状と受領書によると、鎖4本は上高地湯屋伴次郎方、外の4本は近村が預かっていた。(※『槍が嶽乃美観』所収) ※『槍が嶽乃美観』 丸山文台他 明治39年 高美書店 ・一心寺蔵の『念仏法語取雑録』には次の詳細な記載がある。 「槍百間之内、鎖六箇所、 山上より、 一、 二丈八尺五寸 二、 一丈八尺五寸 三、 四丈九尺四寸 四、 三丈六尺五寸 五、 四丈九尺四寸 六、 九尺 惣計 十九丈一尺三寸(約五七米)」 「これによると、鎖は六箇所にかけられており、未使用の一本は後日まで中田又重郎方にて預かっていたといわれるが、もう1本は黒鍬(くろくわ)の者が槍ヶ岳の現地で加工して、外の鎖に連結して使用したものと思われる。」 p.213-216「続 槍ヶ岳頂上の仏像と鉄鎖」 〈かけた鎖のその後〉 ・『槍が嶽乃美観』に「播隆和尚と殆んど同時代に、安曇郡の花見に奥原某という猟師あり、播隆和尚が衆生登攀の為に設置せる鉄鎖を盗み取り、古金として売却せりとぞ。」とあると記載あり。 ・渡辺担平(長野県下の小学校長などを歴任)の遺稿集に、明治37年夏の槍ヶ岳登山のときの描写のなかで、危険なところには播隆道人が付けたという鉄の鎖があったという記載がある。 ・小島鳥水著『氷河と萬年雪の山』(昭和7年)の「槍ヶ岳の昔話」の項に、「「江戸時代に、この山へ始めて登った念仏行者(播隆上人)が、鉄の鎖を槍の穂へ繋いだこと、及び、ついこなひだまで、鎖の断片が残っていたなどといふ話を」聞いたとあるので、鎖は一部残っていたようである。」と記載あり。 ・数年前、筆者の山小屋の従業員が遭難者救助に槍へ登った際、登山道から離れた岩壁の割れ目から恐らく鎖の先に付けられていたと思われる「播隆上人奉□」と読める文字が刻まれた小さな鉄片の銘板を見つけて持ち帰った。(□ははっきりしないが恐らく「奉納」であろうと書かれています。) ○『槍ケ岳開山』 新田次郎著 文芸春秋 1968 【N930/45】 p.223-225「取材ノートより」 「播隆上人が情熱をかけて懸下した鎖の一部は、明治の初年梓川村花見(けみとルビあり)の猟師、奥原某なる者が盗んで持ち帰り、古鉄として売却されたと伝えられ、その残余の鎖も明治三十年ごろまでの間に岩壁から姿を消した。-中略-現在槍ヶ岳の一部に懸けられてある鎖三本及び頂上の祠等は、昭和六年七月に松本玄向寺住職蟹江隆弁氏が発起人となって、播隆上人奉賛会を結成し、その会によって取りつけられたものである。」 〈播隆について〉 先述の『槍ヶ岳開山 播隆』巻末の「播隆上人略年譜(生年および年齢は推定とある。) 槍ヶ岳の頂上に初登頂した修行僧。天明6年(1786年)越中の国新川郡太田組河内村(現富山県上新川郡大山町河内)の中村佐兵衛の次男に生れた。29歳の時、江戸本所の霊山寺にて浄土宗の正式な僧になる。39歳の時笠ヶ岳に登山(4回目)し、頂上に銅仏像を安置。41歳の時小倉村の中田又重郎の案内で第1回槍ヶ岳登山、49歳の時第4回槍ヶ岳登山、槍の穂先に七十間の「善の綱」をかける。50歳の時第5回槍ヶ岳登山、天保11年(1840年)8月、55歳の時に信者の協力により槍ヶ岳に鉄鎖がかけられ大願成就した。同年10月美濃国太田の林市左衛門方で死亡。行年55歳。 ○『目で見る日本登山史』 山と渓谷社編 山と渓谷社 2005 【786.1/ヤマ】 p.26-27「播隆の槍ヶ岳開山」 p.27には播隆著『信州槍嶽畧縁起』が表紙と内容の一部が写真で掲載されている。『信州槍嶽畧縁起』は、槍ヶ岳開山の由来、登拝奨励を説いた冊で、登拝者の安全を期して槍ヶ岳に鉄鎖を取り付けるべく、その勧進のために1836(天保7)年4月施版、配布されている。 ○『国立公園村 安曇村誌』 栗岩英治 村及町研究所 1940 【N232/2】 p.91-92 「槍ヶ岳と播龍上人」 ○『三郷村誌 1 小倉・温・明盛村(昭和29年6月まで)』 三郷村誌編纂会編 三郷村誌編纂会 1980 【N232/23】 p.272-273「播隆上人の消息(庄屋日記)」 三郷村に残る古文書、とくに庄屋日記から播隆の消息をひろっている。槍ヶ岳の「善の綱」をかけた時のこと、槍ヶ岳での修行のこと、平素の状況などがわかる。 p.913-914「播隆」 播隆の略歴ですが、鉄鎖についても記載がある。それによると鉄鎖が取り付けられ槍ヶ岳登山講ができ、その数380余名を数えたとのこと。 | ||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1 事前に『槍ヶ岳開山』を調査したとのことなので、当館の所蔵検索システムで検索してみると、『槍ヶ岳開山 播隆』という資料を見つけた。内容を確認すると、鎖と犬山城主成瀬正寿との関係がわかる記載や槍ヶ岳に鎖をかけた理由やかけるまでの経緯についての記載が見つかった。 2 当館のOPACで「槍ヶ岳」、「犬山城」等のキーワード検索し、ヒットした資料を調べると、槍ヶ岳の鎖について記載されていた。 | ||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | 『槍ヶ岳開山』 新田次郎 | ||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | |||||||||
寄与者 (Contributor) | |||||||||
備考 (Notes) | |||||||||
調査種別 (Type of search) | 文献紹介 文献紹介 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | ||||
登録番号 (Registration number) | 1000279819 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |