レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/04/02
- 登録日時
- 2009/09/09 02:11
- 更新日時
- 2009/09/17 09:11
- 管理番号
- 埼熊-2009-010
- 質問
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未解決
『与野市史 通史編 上』p238に「上杉軍の井原左衛門尉や久下氏らが敗死をし、成氏軍が勝利を得た(康正2年9月、1456年)(「正木文書」)」とある。井原左衛門尉の官位名に続く名前を知りたいので、正木文書を探している。
- 回答
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以下の資料に「正木文書」は掲載されていたが、該当する武将の名前は見あたらなかった。
『群馬県史 資料編5 中世』(原本・5種の寫本)
p187-343「正木文書」あり。配列は文書5種類ごとの年代順。出典が手紙などの文書だとすると康正2~3年の文書と思われるが、名前は見あたらず。
『新編埼玉県史 資料編5(中世1) 古文書』
p574-575「正木文書」の中の岡部(原)合戦についての書状を収録する。
『千葉県の歴史 資料編 中世4 県外文書』
p365-371 千葉県関連個所のみの抜粋。
『上毛及上毛人 237号-248号』に「正木文書」あり。
246号p15(正木古文書4)に武州岡部合戦、武州岡邊原合戦の記述があるが、名前は見あたらず。
調査していく過程で、「井原」は「伊草」、「井上」と出典により苗字が異なり、合戦の年月も諸説あることをあわせて回答した。回答プロセス参照のこと。
- 回答プロセス
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「正木文書」の原本は群馬県立歴史博物館所蔵の重要文化財。
《群馬県立図書館OPAC》で検索すると「長楽寺文書・正木文書」「上毛及上毛人」がヒット。「長楽寺文書・正木文書」の詳細をみると「群馬県史 史料編5」の抜刷と注記にあり。
回答以外で「井原左衞門尉」に関する記述があった資料は以下のとおり。
『戦国合戦大事典 2』(新人物往来社 1989)
p141「岡部原の戦い」に「上杉方は井草左衛門尉をはじめ久下・秋元の諸氏らが戦闘に及んだが(後略)」とあり。「正木文書」年未詳九月十八日の岩松右京大夫(持国宛の足利成氏感状写・野田持忠添状写、同十九日の成氏感状写・持忠添状写や同日の「高文書」高左京亮宛の成氏感状)に「岡部合戦」「岡部原合戦」などが見え、戦功を賞している。」、「鎌倉大草紙」ほか出典あり。
『史籍集覧 6 武家部 年代記編』
p400「鎌倉大草紙 巻下」に「同(康正二年)十月十七日(中略)上杉方には井草左衛門尉久下秋本を始として(後略)」
『深谷上杉家八代記』(大澤成四郎 1992)
p212-213「家臣団の構成」に「第七代当主の憲盛には、「爪牙之臣」と呼ばれる三重臣がいたという。岡谷加賀守、秋元越中守、井草左衛門尉である。」
「深谷上杉家にはどんな家臣たちがいたか。そんな調査の手掛かりとなる一つが、深谷記に記された次に示す御譜代之目録である。」として、四天王に岡谷加賀守、秋元越中守、井草左衛門尉、上原出羽守があげられている。
『埼玉叢書 2』(国書刊行会 1970)
p414-419「深谷記」
上記『深谷上杉家八代記』にあげられた四天王が「上椙御譜代之目録」にあり。
「岡谷加賀守、秋本上総守、井上左衛門尉、上原出羽守」とあり。
『深谷上杉氏の歴史』(深谷上杉顕彰会 1986)
p25-29「深谷上杉氏の三宿老」岡谷氏、秋元氏、井草(左衛門尉)氏あり。岡部原合戦について詳細なし。
『深谷市史 全』(深谷市 1969)
p324-325「岡部原の合戦」あり。詳細なし。
p360井草左衛門尉某とあり。
『新編埼玉県史 資料編10』
p364「井草左衞門佐」とあり。
『深谷上杉氏と深谷城』(北むさし社 1956)
p6「井草左衞門尉某」とあり。
p10「井草左衞門佐」とあり。
『続群書類従 6 系図部』(続群書類従完成会 1957)
p65「及家人(略)井草左衞門佐」とあり。
『深谷上杉氏の歴史』(深谷上杉顕彰会 1986)
p25-29「深谷上杉氏の三宿老」岡谷氏、秋元氏、井草(左衞門尉)氏あり。
『深谷上杉氏史料集』(深谷市 1996) 巻頭の天神宮縁起(国済寺文書)明徳4年(1939年)に「井草左衞門尉勝貞」とあり。
年代から康正2年(1456)の岡部原の合戦で闘った人とは別の人物と思われる。しかし、p52-54の天神宮縁起の説明の中で以下のように書かれている。「後世のためにこの縁起を記した井草左衞門尉勝貞は、のち深谷上杉氏の三宿老の人物と同姓同名である。井草氏が初めて文書に登場するのは康正2年(1456)の岡部原の合戦と、元亀4年(1573)の北条氏と誓書の交換の時である。」
本人ではないが、「同姓同名」なので井草左衞門尉のみの一致ではなく「勝貞」の可能性もある。
『深谷上杉顕彰会二十年の歩み』(深谷上杉顕彰会 2001)
p189「明徳4年の古文書天神宮縁起を発見」の記事に「武蔵国幡羅郡庁鼻祖鄕(略)明徳四甲戌年二月二十五日井草左衞門尉勝貞」
明徳4年(1393)なので、年代的に別の人物とわかる。
- 事前調査事項
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「正木文書」の原本は群馬県立歴史博物館所蔵の重要文化財。
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『群馬県史 資料編5 中世』
- 『新編埼玉県史 資料編5(中世1) 古文書』
- 『千葉県の歴史 資料編 中世4 県外文書』
- 『上毛及上毛人 237-248号』
- 『深谷上杉氏史料集』(深谷市 1996)
- 『深谷上杉顕彰会二十年の歩み』(深谷上杉顕彰会 2001)
- キーワード
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- 井原左衞門(イハラ サエモン)
- 井草左衞門(イグサ サエモン)
- 埼玉県-歴史-史料
- 室町時代-武蔵国
- 郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000057732