レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年10月27日
- 登録日時
- 2022/11/10 23:05
- 更新日時
- 2022/11/24 21:47
- 管理番号
- 県立長野-22-132
- 質問
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未解決
3代将軍徳川家光が上洛の帰途に、松本城を経由して善光寺に行こうとしていたが、寛永期の木曽路に落石があって、中山道経由の帰途を中止したらしい。家光上洛の時期に、中山道・木曽地域における具体的な災害(地震、豪雨等による落石、土砂崩れ)に関する記述がある資料はあるか。
- 回答
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寛永元年から11年頃までの中山道・木曽地域における具体的な災害(地震、豪雨等による落石、土砂崩れ)に関する記述があるものは確認できなかった。
『長野県に於ける被害地震史料集』 国立防災科学技術センター編・刊 1987 【N453.2/49】p.iii「長野県に於ける被害地震年代表」では、寛永10年1月21日の相模・駿河・伊豆を襲った地震について、松本でも有感地震であった記載がある。ただし、被害不明となっており、県内の他地域の様子はわからない。
『ゆれる大地 第23回特別展』長野市立博物館編・刊 1990 【N453.2/73】p.48の「長野県における被害地震年表」では、寛永4年9月14日長野県北部の長野市松代が震源の地震(M6.0)が掲載されているが、県内他地域の被害については不明。
当時、代官所が置かれ関所もあった木曽福島の『木曾福島町史 第1巻 歴史編』 木曽福島町教育委員会編 木曽福島町 1982 【N234/76/1】の「交通」「災害異変」の節を見たが、当該年代の記載はなかった。なお、p.778-780にかけて、木曽福島を中心とした水害の一覧があったが、寛永年間の記事は15年のものだった。寛永年間以前では、慶長19年のものになる。また、異変は、飢饉を中心としたもので、そのほか疫病について触れている。ただし、異変の一覧は寛永19年から始まっているため、問い合わせの期間は含まれない。
『南木曾町誌 歴史編』 南木曽町誌編さん委員会編・刊 1982 【N234/74/1】には、中山道の様子が宿場ごとに書かれているが、道の付け替えなども記載されており、もともと難所が続く道だったと思われる。
木曽福島より南にある地域は土砂崩れの多い地域のため、『蛇抜・異人・木霊-歴史災害と伝承-』 笹本正治著 岩田書院 1994 【N209/35】を調べた。巻末p.1の「蛇抜関係年表」に「寛永元年(1624) この年、与川大きな被害(詳細不明)[民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11p]」とあったが、この年の蛇抜について記述のある資料を確認できなかった。出典とされる『民俗調査報告書』は和洋女子大学民俗研究会によるフィールドノートのようなものと思われるが、和洋女子大学学術情報センター、国立国会図書館をはじめ全国の主な図書館の蔵書を調べたが、所蔵する図書館は確認できなかった。
「徳川実紀」『新訂増補国史大系 第39巻』 吉川弘文館 1998 【210.08/コク/39】のp.598 「大猷院殿御実紀巻廿二」 寛永十年五月十八日の項目に、
松平伊豆守信綱。大目付井上筑後守政重。柳生但馬守宗矩は。明年御上洛によて。各駅御旅館幷道
路巡察命ぜられいとま給ふ。
とあり、また、p.619 「大猷院殿御実紀巻廿四」 寛永十一年正月九日の項目に、
御上洛供奉の輩。木曽路通行すべきをもて。道梁修理加ふべし。また供奉の輩には。去年命せられ
たる軍役の半役たるべき旨伝へらる。
とあった。しかし、その後の記録を見たが、木曽路に関する報告や、中山道を経由することを中止する旨の記述は確認できなかった。
また、『江戸時代の信濃紀行集』 矢羽勝幸編 信濃毎日新聞 1984 【N950/50】に所収されている 沢庵著「木曽路紀行」は、寛永10年に沢庵が江戸から中山道を経由して上洛したことを書いたもので、内容を確認したが、災害のため通行に困難があった旨の記述は、見受けられなかった。ただ、贄川宿に、
ここより木曽のうちなり。川は谷のそこながれて、そばの道をゆくに、道かけてとりつくべき様な
きをわたしたるかけ橋なり。川をよこにはわたさずして、川とならびてわたるを、木曽のかけはしと
いへるなり。
とあった。
- 回答プロセス
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1 近世の木曽地域の文書類を集めた資料である『長野県史 近世史料編 第6巻 中信地方』 長野県編 長野県史刊行会 1979【N209/11/6】に、寛永年間の尾張領についての県内に残る史料の中には、問い合わせの将軍通行予定の文書や、落石などによる中山道が通行止めのようになる災害の記録は確認できなかった。
同様に『長野県史 通史編 第4巻 近世1』 長野県編 長野県史刊行会 1987【215.2/ナガ/5-4】にも、寛永年間の災害について、木曽路に係るものは確認できなかった。
2 『長野県西筑摩郡誌』長野県西筑摩郡役所編 千秋社 2001(長野県西筑摩郡役所 1915刊の復刻)【N234/117】p.447-537に、「木曽編年史」があり、p.469-470に寛永年間の記述がある。しかし、中山道の通行に支障をきたすような災害の記載は確認できない。
3 『岐蘇古今沿革志』 武居正次郎著 国書刊行会 1982(発光堂 1914刊の復刻)【N234/17a】は、木曽地域に関する古記録、古文書から情報を収録し、編年体で編纂されたものとなっている。寛永年間は、木曽福島代官山村氏の第3代、第4代が治めていた期間のため、3代良安、4代良豊の事績等を確認したが、家光の上洛の帰途の件に関する文書や、震災、落石に関するものは確認できなかった。
4 代官所が置かれ関所もあった木曽福島の『木曾福島町史 第1巻 歴史編』を調べる。
5 『南木曾町誌 歴史編』他、中山道周辺の町村の誌史類を調べる。
6 『長野県に於ける被害地震史料集』で地震の記録を確認する。
7 木曽の南部は、「蛇抜け」と呼ばれる鉄砲水などの土砂災害などが多い地域のため、「蛇抜け」で蔵書を検索すると、『蛇抜・異人・木霊-歴史災害と伝承-』がヒットしたため、内容を確認する。「寛永元年(1624) この年、与川大きな被害(詳細不明)[民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11p]」とあったため、「民俗調査報告書」を所蔵確認する。未所蔵のため、所蔵している図書館を探す。所蔵館は確認できない。
8 中山道を通行しようとしていた将軍家光側の資料である「徳川実紀」で、将軍着任以降、上洛までの記録を追う。
9 当時の木曽路を通行した人の記録を調べる。所蔵資料を「木曽」と件名に「紀行」を入力して検索する。
<調査資料>
・『資料日本被害地震総覧』 宇佐美龍夫著 東京大学出版会 1975 【453.2/49】
・『木曽-歴史と民俗を訪ねて-』四訂版 木曽教育会郷土館部編著 信濃教育会出版部 2010 【N234/99c】
・『木曽・楢川村誌3 近世』 楢川村誌編纂委員会編 木曽郡楢川村 1998 【N234/88/3】
p.630の「奈良井・贄川宿 火事年表」では、寛永10年 奈良井宿の項に「町中残らず」という記述があ
るが、中山道における道普請の記述は見られなかった。
・『大桑村誌 上』大桑村編・刊 1988 【N234/81/1】
・『山口村誌 上』山口村誌編纂委員会編・刊 1995 【N234/98/1】
・『愛知県史 通史編4 近世1』 愛知県史編さん委員会編 愛知県 2019 【215.5/アイ/1-4】
・『愛知県史 資料編16 尾西・尾北』 愛知県史編さん委員会編 愛知県 2006 【215.5/アイ/2-16】
・『愛知県史 資料編21 領主1』 愛知県史編さん委員会編 愛知県 2014 【215.5/アイ/2-21】
・『歴史の道調査報告書I-V』長野県教育委員会編 長野県文化財保護協会 1984【N682/53-1/1】
・『中山道 宿場と途上の踏査研究』 藤島亥治郎著 東京堂出版 2007 【N521/143】
・『信州の活断層を歩く』 信濃毎日新聞社編集局編 信濃毎日新聞社1998 【N453.2/81】
・『木曽の庶民生活』 生駒勘七著 国書刊行会 1975 【N382/27】
・『図説 国宝松本城』 中川治雄著 一草舎 2005 【N521/178】
p.117に松本城の普請の経緯に触れ、「(-前略-)その帰路は中山道経由で、善行寺参りをして帰ると
の口実で松本城へ寄るとのことだった。しかし、木曽路や埴科郡の坂木などで山崩れがあり中止になっ
たという。それでも普請は進められたのである。」とあったが、中止に関する具体的な文書等の言及は
確認できなかった。
・『木曽路大紀行』 田中欣一編 一草舎 2006 【N234/124】
- 事前調査事項
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松本城の月見櫓は徳川家光を歓待するために増築されたことが、松本城のホームページにある。
- NDC
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- 地震学 (453 10版)
- 気象学 (451 10版)
- 交通史.事情 (682 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 中山道
- 落石
- 地震
- 徳川家光
- 松本城増築
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000323755