第7回外交記録公開で公開された外務省記録「対日平和条約関係 第一次ダレス来朝関係(第一次交渉)」に関係記録が含まれており、そのうち主要な文書は『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉』に収録されています。
1951年(昭和26年)1月25日、羽田に到着した米国のダレス(John Foster Dulles)特使一行は、2月11日に離日するまで三度にわたって吉田茂首相と会談しました。このうち第二回目の会談(1月31日)でダレス特使は、安全保障問題に関して、米軍駐留による日本防衛を示唆しつつ日本もまた再軍備を進め自由世界の防衛に貢献するよう促しました。これに対して吉田首相は日本が再軍備することに消極的な姿勢を示し、ダレス使節団の失望を招きました。こうした状況を打開するため、日本側はその後の事務レベル折衝において、5万人からなる「保安隊(security forces)」の設置や将来の参謀本部に発展すべき「自衛企画本部(Security Planning Headquarters)」を創設するとした文書(「再軍備の発足について」)などを米国側へ提出し、これにより交渉が実質的に進展しました。その結果、2月9日、井口貞夫外務次官とアリソン(John M. Allison)公使により関連文書への「イニシアル(署名)」が行われ、これらの文書は後の平和条約、日米安全保障条約および日米行政協定の基礎となりました。
なお、以上の経緯については、平和条約交渉において日本の事務方として中心的な役割を果たした西村熊雄条約局長がまとめた調書が『日本外交文書 平和条約の締結に関する調書』(全5冊)として公刊されています。