本学が所蔵する資料の中で、売布神社および中山寺と清澄寺の領地争いについて確認できたものは
以下になります。市史、特に資料編に収録されている古文書類を丹念に確認すれば、
中世の宝塚の状況について、もう少し詳細な情報が得られるかとも考えられます。
また、宝塚市市史資料室は市史編纂にあたって使用された史料について詳しい職員の方がおられるので、
そちらもご案内しました。
1.辞書・辞典類
①『角川日本地名大辞典』28 兵庫県
“売布神社”という項目はないが、p.1373の”米谷”に売布神社に関する記述あり。
また、p.833“清澄寺”、p.1079“中山寺”の項目あり。
②『兵庫県の地名』1(日本歴史地名大系 29)
p.346“米谷庄”、“売布神社” 、“清澄寺”、p.350”中山寺”の項目あり。
文中の参考文献より、売布神社の項目を執筆する際、「和田家文書」という文書を参照したことがわかる。
また、p.347上段~中段には清澄寺と中山寺の山内境相論の記述があるが、その根拠となる文書の真偽に
疑問が残ると記載あり。
2.その他の資料
①『兵庫縣神社誌』上巻
p.587-590に売布神社の項目あり。荒木村重の乱の被災についての言及はないが、
「文化七年火災に罹りて再建す」とあり、1810年に火災で焼失したことが記載されている。
②『宝塚』
p.47に売布神社の項目あり。また、同書には中山寺と清澄寺(清荒神)の記述もあるが、
領地争いについては記載されていない。
③『宝塚市史』
売布神社・中山寺・清澄寺に関する記述が各巻に掲載。
・第一巻
p.406の項目「売布神社と高売布神社」に、この神社について簡単に紹介。
また、p.413-419に中山寺と清澄寺に関する大まかな紹介文ありだが、
寺の領地や領地争いに関する記述は見当たらず。
・第二巻
【中山寺と清澄寺の領地争い】
p.76-79「守護佐々木道誉」という項目あり。特にp.78後半からは、中山寺と清澄寺の堺争論に
道誉が裁決を与えた文書(貞治二(1363)年三月十六日付)について触れているが、
この文書は後世の模索である可能性あり。また、p.177に道誉の文書を引用した、塩川国満の判物
(大永三(1523)年五月十八日付)に関する記述があるが、こちらの文書も疑問の残る物のよう。
ただ、佐々木道誉と塩川国満の時代は約160年離れているため、
中山寺と清澄寺の争いは一度ではなかったことも考えられる。
【荒木村重の乱の被害】
売布神社の被害については触れられていないが、p.199に神社のある米谷村が全村焼亡したという記述あり。
・第四巻(資料編Ⅰ)
以下2点の文書の翻刻が収録。
p.390 「佐々木道誉下知状案」
p.466 「塩川国満下案」 *原本は中山寺所蔵
・第五巻(資料編Ⅱ)
以下の文書の翻刻が収録。
p.304 「売布社石碑の覚」 *原本は和田家文書の一部として、市役所の社会教育課が管理(宝塚市指定文化財)
(宝塚市立中央図書館内、宝塚市市史資料室のご担当者様より)